時代の美意識を映し出すマネキン。吉忠マネキン本社(京都市中京区)には、終戦間もない頃から現代までのマネキンがずらりと並ぶ。かつて理想の体形とされた細いウエストの白人女性、伝説的な日本人モデルを元にした切れ長の瞳、スーパーモデルを思わせる黒人女性…。製作年代ごとにスタイルや顔、人種が移り変わるさまは、流行と価値観多様化の鏡だ。
戦争で中断余儀なく
国産洋装マネキンが誕生したのは大正時代の1925年。意外にも精密機械で知られる島津製作所(同区)が発祥だ。同社は教育用理化学器械の製造から始まり、人体模型も生産していた。創業家2代目島津源蔵の次男、良蔵が、この技術を応用して日本独自の「島津マネキン」を製作した。
東京美術学校(現・東京芸術大)出身。芸術性を取り入れて原型製作に励み、最盛期の生産量は年間5千体にも上った。だが、戦争で中断を余儀なくされる。
同社はマネキンから手を引く。しかし良蔵は諦め切れず、終戦翌年の46年、七彩(ななさい)工芸(下京区、現・七彩)を設立。女性の服装が洋装へと転換する時代。マネキン需要が高まり、京都ではほかにも島津製出身者が、吉忠マネキン、ヤマトマネキン(現・東京都)を相次いで創業した。
七彩には、良蔵を慕って京都発の前衛陶芸集団「走泥社(そうでいしゃ)」の芸術家が集った。同人でもあった技術者が手掛けた菩薩(ぼさつ)のような表情のマネキン「FW―117」がヒットし、社の礎を築く。一方、吉忠はいち早くレンタル事業を開始。百貨店で洋服のイージーオーダーが増える中、最新型が借り換えられるレンタルは業界の主流になった。
最新技術と融合
60年代はミニスカートで知られるツイッギーさん、70年代は日本の元祖スーパーモデルと称される山口小夜子さん…。憧れの女性を模したマネキンがショーウインドーを飾った。バブル期には肩パッドの服に合ういかり肩のデザインも登場。日本マネキンディスプレイ商工組合(京都市中京区)によると当時、マネキン業者は全国で60社以上あったという。
だが90年代以降、景気が減退。ファストファッションやネット通販の流通も拍車を掛け、華やかな表情のマネキンが消え、抽象的な顔や安価な上半身だけの型が増えていく。一方で、近年はふくよかな体形やジェンダーレス型といった従来のイメージにとどまらないマネキンも現れている。
最新技術との融合も進む。サービスや介護分野など人手不足の現場で期待されるロボットを人間に近い見た目に仕上げるため、マネキンを応用するものだ。今秋、東京で開かれた国際ロボット展にコンシェルジュ型を出品した吉忠の吉田忠嗣社長(85)は「常に最先端を象徴する存在として進化していく」と等身大の未来を見据えた。
イチローさん“分身”も登場
元プロ野球選手イチローさんそっくりの等身大マネキン。東京都内で11月中旬に行われたワコール(京都市南区)のイベントで披露された。制作したのは七彩。173台のデジタル一眼レフカメラでイチローさんの全身を同時に撮影してデータ化、3Dプリンターを使って原型を作った。
人間を生きたまま型取りする「スーパーリアルマネキン」を七彩が初めて手掛けたのは1971年。風呂おけのような箱の中にモデルが立ったままポーズを作ってすっぽりと入り、ゼラチン状の液体を流し込み、約5分で型を取るという技術を開発した。
実際に、芸術家の岡本太郎さんや俳優の鰐淵晴子さんのマネキンが制作された。リアルマネキンは美術展に活用されるなど、実用性より芸術性で注目を集めたという。
今回のイチローさんマネキンは、ワコールが各地で行うイベントに登場し、“分身”として商品をPRする。七彩戦略企画室の渡邉啓史さんは「マネキンの新たな活用法になれば」と期待している。
<メモ> 歴史伝える島津製資料館
島津製作所の創業記念資料館には、島津良蔵が人体模型の技術を応用して完成させた「島津マネキン」(1938年製)が展示されている=写真。京都市中京区木屋町二条南。午前9時半~午後5時。休館日は水、土、日、祝日と年末年始。3日前までに事前予約が必要。