記憶の妻子、笑顔のままで 遺体と顔合わせられず

正子さんと稲作をした千枚田の棚田を見詰める出口さん=30日午後3時半、輪島市白米町

  ●輪島の出口さん 今も2人安否不明

  ●後悔、喪失感の1カ月 思い出の千枚田を希望に

 見つかった遺体とはどうしても顔を合わせられなかった。能登半島地震による土砂で自宅が押しつぶされた輪島市渋田町の出口彌祐(やすけ)さん(77)。がれきの中から発見された妻と息子は損傷が激しいと聞かされ身元の確認を断った。「思い出の中の2人は笑顔のままにしときたい」。今も安否不明のリストに名前がある2人は、間もなく鑑定結果が出るという。あの日から1カ月。助けられなかった後悔と喪失感にさいなまれた日々が続く。それでも妻と一緒に丹精した千枚田の再生へ一歩を踏み出そうとしていた。(前輪島総局長・中出一嗣)

 1日夕、出口さん方には妻正子さん(75)のほか、横浜にいる長男博文さん(49)が帰省し、京都に暮らす次男敦史さん(46)も駆け付ける予定になっていた。市内のバス停まで敦史さんを車で迎えに行った出口さん。買い物を済ませ、地元の神社を訪れた後、激しい揺れに襲われた。

 自宅に続く海沿いの国道249号は土砂で寸断。薄暗い中、山道を歩いてたどり着いた家は約30メートル後ろにある山が崩れて土砂にのみ込まれ、原形をとどめていなかった。正子さんが車に備えていた笛を何度も吹き鳴らしたが、返事はなかったという。

 渋田町がある南志見(なじみ)地区は、地区全体が一時孤立、消防による救助活動が始まったのは、地震から数日たってからだった。出口さんは1週間近く車中泊を続け救助を見守ったが、金沢に避難。遺体が見つかったと連絡があったのは16日だった。

 敦史さんと向かった輪島市内の安置所では遺体の損傷が激しいと聞かされた。「顔が少しでも分かるならとは思ったが、どうしても見ようと思えなかった」と出口さん。2人は同じ場所で見つかり「博文は母ちゃんを助けようとしてくれた。一緒におってくれたことが救い」と話す。

 正月は家族の写真を撮るのが恒例だった。「これは去年のやつ。博文は私に似てるでしょ。今年はこれが撮れなくてね」。目に涙を浮かべながら、1年前の家族写真を見せてくれた。出口さんが玄関前で撮った1枚だ。「写させてもらえませんか」とお願いしたが、2人の在りし日を自分の中にとどめておきたいとの思いからか、首を縦には振ってくれなかった。

  ●「今はそれしか」

 出口さんは地元の国名勝「白米(しろよね)千枚田」で、耕作ボランティアの副代表に就いている。長年、気象台の職員として働いた後、ふるさとに戻り、退職後は千枚田の世話を生きがいにしてきた。

 その千枚田も地震で無数の亀裂が入り、ボランティアのメンバーの大半が2次避難で市外に出た。「母ちゃんも文句を言いながら、手伝ってくれたんですよ。田を直すことからでもいい。必ずみんなで一緒に作業をしたい。今はそれしか考えられない」。高台から夫婦で稲作をした棚田を懐かしそうに見渡す。

 正月の団らんも家族も家も奪われた人たちにたくさん会った。もう1カ月なのか、まだ1カ月なのかは分からない。地震で絶望の淵に立たされてもなお、出口さんのように、わずかな光に向かって生きようとしている人たちは確かにいる。

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