『青いパパイヤの香り』睡蓮鉢の中の小さなベトナム

『青いパパイヤの香り』あらすじ

1951年ベトナム、サイゴン。ある資産家の家に、10歳の少女ムイが奉公人として雇われて来た。その家には優しい女主人と根無し草の旦那、三人の息子たち、そして孫娘を亡くして以来こもりっきりのお婆さんがいた。ムイは先輩女中のそばで働きながら、一家の雑事を懸命にこなしていく。そして彼女は、ある日長男が連れてきた友人クェンに淡い恋心を抱く……。

作り出した“小さなベトナム”


シクロ』(95)や『夏至』(00)、『ノルウェイの森』(10)、そして『ポトフ 美食家と料理人』(23)など、国際的に活躍を続けているトラン・アン・ユン監督。その長編監督デビュー作となり、カンヌ国際映画祭カメラ・ドール(新人賞)に輝いたのが、『青いパパイヤの香り』(93)である。

物語の舞台となるのは、1950年代のベトナム、サイゴンの大きな旧家だ。放浪癖のある主人と、その母、妻、子どもたちが住んでいる。そこに住み込みの奉公人としてやってきたのは、まだ10歳の少女ムイ(リュ・マン・サン)。本作『青いパパイヤの香り』は、彼女のあどけない瞳を通して、没落していく家の運命と、人間模様を映し出していくという内容だ。

観客は何より、緻密に計算された映像の美しさに惹きつけられるだろう。物語は、ほぼ屋敷の敷地内で、ゆったりと進行していく。南国の植生を通した光が全体を優しく包み込むなかで、昆虫やカエルの営みや植物の生態などの小さな世界がエドワード・ヤン監督の映画のようにみずみずしく、家屋のあちこちの姿が小津安二郎の映画のように端正に切り取られる。多くの人にとって子ども時代の経験が貴重であるように、何気ない淡々とした日常が、きらめきに溢れた、かけがえのないものとして表現されている。

『青いパパイヤの香り』予告

驚かされるのは、なんとこの映像の数々が、フランスで撮られているという事実だ。監督のトラン・アン・ユンは子どもの頃、家族とともにベトナム戦争から逃れ、フランスに移り住んだという経緯がある。だからこそ監督は、自分のルーツであるベトナムの文化や風習にこだわり、子ども時代というテーマに執着したのではないだろうか。しかし、最初の長編作品で海外ロケを敢行するというのは、無謀なところがあったはずだ。そこで、フランス郊外にセットを組み、ベトナムの旧家と、そこから見える路地を作り上げるという、特殊な選択をしたのだと思われる。

とはいえ、そこが逆に功を奏したといえるのではないか。限定的な空間を撮り続けたことで、映像は極度に完成度を高める結果になったのである。かつて小津安二郎監督は、美術スタッフに、床の間の壷などの位置をミリ単位で指示し、不自然なほどに映像を端正なものにしていった。この人工的な世界が、ここでのトラン・アン・ユン監督の持ち味ともいえる。小津監督と異なるのは、静的な場面だけでなく、流れるようなカメラの移動が頻繁に見られるところだろう。このあたり、監督は溝口健二監督からの影響を公言している。

この丹念な映像の集積は、一つの睡蓮鉢に愛情を込めて植物を浮かべ、金魚を泳がせることで、一つの“小さな世界”、“小さなベトナム”を作り出そうというような試みだと感じられる。本作の物語は、そんな環境のなかで監督自身が逆算して考えたものだと推察するが、一人の小さな奉公人と、仕える家そのものが主人公となる話は、まさにこの小さな世界にマッチしたものとなっている。また、作曲家トン=ツァ・ティエの音楽は、監督の作家性と同様に、まさに東洋と西洋の感覚や文化が交差するようなモダンさで、本作に異様さや洗練した雰囲気を与えている。

恋愛の隠喩


それでは、そんな本作が表現したかったテーマとは何なのか。本作でとくに重要となるのが、主人と奉公人それぞれの立場というモチーフと、あちこちに散りばめられた、性的なサイン、あるいは恋愛の隠喩になるだろう。これは、第二次性徴に差し掛かった少女の目を通した、成長の表現でもある。

植物の茎から滴り落ちる白い液体は、精液のようなイメージを喚起させ、ムイがそっと触る青パパイヤの白い種は、生殖のイメージを印象づけている。主人の小学生の三男は、ムイにわざと放尿する姿を見せつけ、幼稚で屈折した愛情を表現しようとする一方、ムイはムイで、家にたまにやってくる、長男のハンサムな友人クェンに淡い恋心を抱き、密かに彼の到来を待ち焦がれるようになっていく。このような描写が、彼女のたどる運命へと結びついていくのだ。

『青いパパイヤの香り』(c)Photofest / Getty Images

20歳に成長し、美しい女性となったムイを演じるのが、後にトラン・アン・ユン監督のパートナーとなり、彼の映画作品に度々登場することとなる、トラン・ヌー・イェン・ケーである。面白いことに、成長したムイは、おしゃべりでいろいろなことを質問していた子ども時代と打って変わって、ほとんど喋らない人物になっている。

ここで思い出すのが、中国の作家・魯迅の「故郷」という小説だ。これは、久しぶりに故郷に帰った男が、子ども時代によく一緒に遊んでいた小作人の息子で聡明だった友人の、すっかり卑屈な態度を取るようになった姿に衝撃を受けるといった内容。そこには、身分や環境によって、本来の人間性が変化させられてしまうという現実への、問題提起がある。

ムイは、20歳になっても蟻の営みを眺めるような、みずみずしい感性を保ちつつも、それを他人の前では見せず、必要以上の会話を避けるようになっている。彼女が仕える家の子どもたちは、それぞれやりたいことをやっているが、彼女には教育が与えられず、自分のなかの秀でた才能や感性を伸ばすことができないばかりか、家からも出ずに10歳の頃と同じ仕事を繰り返しているのである。

仏教の像が意味するもの


そんなムイに、大きな変化が訪れる。あの憧れのクェンのもとで奉公ができるという、信じ難い運命が巡ってくるのである。クェンはフランスへの留学を経て音楽家となっていて、派手な身なりの婚約者を連れていた。しかし、彼は次第にムイに惹かれていき、騒動の末に、ムイはクェンのパートナーの座を手に入れるのである。

ムイは忙しい日々から解放され、字を習い、本をゆっくりと読める時間を得る。ここで、無口だった彼女は、美しい声で言葉を発することになる。一度失った、自分を表現する機会が、また巡ってきたのである。そのようにとらえれば本作は、声を失った女性が、それを取り戻すまでの物語だと理解することができる。そして、もう一度姿を表す青パパイヤの種は、彼女の懐妊を予感させる暗示として機能している。

『青いパパイヤの香り』(c)Photofest / Getty Images

もう一つ注目するべきは、ラストカットで映る仏教の像であろう。この演出は、ジャン・ルノワール監督の映画『ゲームの規則』(39)で、オリエンタルな空気を醸し出していた像を連想させるものであり、東洋と西洋を繋ぐトラン・アン・ユン監督の作品に相応しいモチーフであるといえる。

物語上では、この仏教の像は、ムイという一人の女性に、宗教上の御利益が与えられたことを示しているように思える。思えば、10年間ムイが奉公していた旧家の主人の妻は、自分の娘を失って以来、その遺影を仏壇に飾り、義母とともに供養を祈っていた。そんな妻は、ムイを密かに自分の娘のように思い、家を離れるときには、娘にあげようとしていた貴金属とアオザイを渡していたのだ。

このように考えれば、ムイにとって少々都合が良いと感じられる終盤の物語の展開が、旧家から失われていった幸福が最終的に娘代わりのムイに与えられるようになったのだと、納得することができる。それが、婚約者の女性の心を破壊する略奪愛というかたちだったのが、本作の後味をいささか苦いものにしてはいる。しかしその苦味こそが、実際にパパイヤを食べたときに感じる、独特の味わいに近いものだといえるのかもしれない。

文:小野寺系

映画仙人を目指し、さすらいながらWEBメディアや雑誌などで執筆する映画評論家。いろいろな角度から、映画の“深い”内容を分かりやすく伝えていきます。

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