天国の暖かいところで自由に 能登地震で和歌山・白浜町出身の母が犠牲、長女の思い

母の位牌に手を合わせる田中七海さん(和歌山県白浜町で)

 「天国の暖かい所で、自由に過ごせているといいな」―。元日に発生した能登半島地震で母を亡くした田中七海さん(18)=東京都=はそう話した。母・優子さん(享年52歳)は和歌山県白浜町出身だった。遺骨は先日、町内の墓に納められた。「母のように何でも諦めずにやってみる人になりたい」。七海さんは悲しみをこらえ決意を語った。

 母は石川県輪島市で暮らしていた。市街地から離れた場所にあった自宅は地震で倒壊。道路の寸断で孤立状態になったため、救助活動が遅れた。亡くなったのが確認されたのは地震発生から6日後。死因は低体温症だった。

 七海さんは、京都府で生まれ、輪島市で育った。ここ数年は進学などのために上京。母と離れて暮らしていた。 

 母と最後に連絡を取ったのは昨年12月31日。LINE(ライン)で「1月2日に電話でゆっくりと近況報告をする」と約束した。地震発生後、安否確認のラインを送ったが「既読」にならなかった。

 母は、藍を栽培して染め物を作って販売していた。好奇心旺盛で、行動力のある人だった。「基本は優しいけど、私が大人になっても1人でちゃんと生活していけるようにと掃除、洗濯などを厳しく教えられた」

 行動力のある母と一緒に国内外でのボランティア活動や旅行など、さまざまな体験をしてきたが、一番印象に残っている母との思い出は、一緒に買い物へ行ったり、畑仕事をしたり、映画を見たりした日常の生活だという。

 「とても怖くて寒かったよね。助けてあげられなくてごめんね。私は1人でも生きていけるように強く育ててもらったから、もう心配しなくて大丈夫だよ。安心してね」

 白浜町にある母の実家に置かれた位牌(いはい)に手を合わせ、心の中で声をかけた。

 白浜町には、祖父母や親戚に会うため、幼い頃から年1、2回訪れていた。

 「自分にとっての実家はずっと白浜町。帰るといつも家族みんながいて、にぎやかだった。おせちを食べたり、カニ鍋を食べたり、お餅をついたり、獅子舞で頭をかんでもらったり」。楽しい思い出がいっぱい詰まった場所だという。

 4月から大学に進学し、福祉を学ぶ。「将来は人の支えになる仕事がしたい」と話した。

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