武並駅から恵那駅まで~中山道踏破コースのご紹介~後編

前編では恵那市武並町・深萱立場から、乱れ坂・乱れ川までご案内いたしました。

今回は首なし地蔵から西行硯水公園までの道のりをご紹介いたします。

首なし地蔵の伝説

乱れ坂を上り始めて200メートルほど進んだ右側に「首なし地蔵」が立っています。

その昔二人の武士がこの道を通り、お地蔵さんに頭を下げて木陰で転寝をした時のこと、ふと一人が目を覚ますと、もう一人の武士が首を切られて殺されていたそうです。

驚いて犯人を捜したものの見つからず、残った武士は怒りのあまり「黙って見ているとは何事だ!」とお地蔵さんの首を切り落としてしまいました。

以来何度首をつけようとしても、どうしてもつくことはなかったそうです。

姫御殿跡

首なし地蔵から数十メートル大井宿側に進み、たくさんの松ぼっくりをつけることで知られる子持ち松を過ぎると、左側の雑木林の中に進む階段が見えてきます。

ここには展望の良い高台があり、旅人にとっての格好の休憩場所でした。お天気の良い時は木曽の山々から遠く馬籠宿まで眺めることができます。

中山道は京都から江戸(東京)へ輿入れをする姫君が通行されることが多く、特に有名な文久元(1861)年の和宮降嫁の際は、この地に漆塗りの立派な御殿を立てて休憩をされたと、記録に残っています。それゆえにこの場所を「姫御殿跡」と呼んでいます。

槇ヶ根追分

姫御殿跡を過ぎて左側に一基の馬頭観音を見、さらに300メートルほど進むと、右側に「槇ヶ根追分道標」が見えてきます。今歩いている中山道と、名古屋から伊勢へと繋がる下街道(したかいどう)との分かれ道の印です。

この追分には槙本屋、水戸屋、東国屋、松本屋、中野屋、伊勢屋などの屋号を持つ茶屋が9軒あり、多くの人が一休みしていきました。また追分には「伊勢神宮遥拝所」もあり、伊勢まで行く旅費や時間がない人がここで拝んだそうです。

昭和62年、発掘によって東西三間、南北五間の遥拝所の建物の土台、そして東隣に茶屋と思われる遺構が見つかりました。

槇ヶ根一里塚

追分を過ぎると車道と中山道とが合流する部分が300メートルほど続き、中山道と書かれた脇道を右に入って、また細い道を進みます。

しばらく歩くと景色が開けた場所に差し掛かります。

初日の出が見られる場所として訪れる人も多いここは、現在「西行の森 桜百選の園」と言われ、百種類の桜百三十本が植えられています。春は言うまでもなく美しい景色を見ることができますが、その他の季節でもまきがね公園やさらに奥の山々が一望に見渡せ、清々しい気持ちを味わうことができます。

西行の森からもう少し進んだ先に槇ヶ根一里塚がありますが、この塚はなぜか道の両側のものが10メートルほどずれて築かれています。江戸から数えて88番目の一里塚です

伝西行塚

一里塚からやや急な坂を下り、足元が石畳になってきたあたりの道の左側に、伝西行塚があります。

平安時代後期に活躍した僧侶で歌人の西行は、その昔この地で3年ほど暮らし、念仏三昧の日々を送りながら、数多くの和歌を残しました。伝西行塚はこの地で亡くなった西行の墓とも、供養塔とも言われ、大井の長國寺に伝わる「長國寺縁起」には、西行が亡くなった際の様子が細かく記されています。

西行塚の奥には西行塚展望台があり、うっそうと茂った樹々の奥に山々を望むことができます。

是より西 十三峠

伝西行塚から石畳の西行坂を下りてきたところに「是より西 十三峠」と書かれた石碑があります。

西行坂から大湫宿までの三里半は山道が続き、数多くの小山を越すため上り下りの坂が多く、このように呼ばれていたようです。

この石碑から先、恵那駅までの2キロほどの間は、街並みの中のなだらかな下り坂を通り、少しずつ宿場町に近づく風情を味わえる道のりになっています。

西行硯水公園

中央道高架をくぐり、川を渡り、踏切を超えて左へ進路をとると、車道の脇の歩道を進む形になります。

最後にご紹介するのは西行硯水公園。歌人西行が和歌を詠む時、ここにあった泉の水を汲み、硯で墨をすったと言われています。公園内には西行の歌碑があり、またたくさんの桜の木が植えられていて、「願はくは花の下にて春死なん」と詠った西行を偲べる場所となっています。

「中山道踏破コース」恵那駅周辺編は後日公開いたします。

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