6年生の2月、母が家を出て行った… 娘から父へ、私にとって何があってもお母さんはお母さんでお父さんはお父さん【離婚と子ども】

父から毎朝ラインで送られてくるその日の弁当の写真。「昼には弁当を開くのに。謎でしょ」と苦笑いする女子高生

 広島県内に住む女子高校生(17)は、今もはっきり覚えている。小学6年生の2月、母が家を出ていった。父の留守中に「いなくなるね」と言って、電話番号を書いた紙を残した。母が持っていた大きな荷物を見て、もう戻ってこないと悟った。「本当は追いかけたかったのに、どうしていいか分からなかった」と女子高生は話す。

 「勉強しなさい」と口うるさい時もあったけど、学校であった出来事を楽しそうに聞いてくれる母だった。友達のお母さんよりちょっと若くてきれい。母譲りの丸顔が「お母さん似じゃね」といわれると、なんかうれしい。一緒に過ごした時間は長く、そんな母のいない生活は想像できなかった。

■母の悪口をいう父に「お母さんに付いてけばよかった」
 でもこうなるかもと、予想はついていた。県内の高校で教師をしている父は、平日は残業続きで土日も部活指導に出かけた。母はイラついていたようだ。激しさを増していく父と母の口論。父が「浮気の証拠」のレシートを母に突き付けた時は、物が飛び交う中でひたすら「早く終わって」と念じていた。

 両親が離婚してからは生活が一変した。父ときょうだい3人で家事の役割分担を決めた。弟と妹は食器洗いとふとんの上げ下ろし。女子高生はやったことのない洗濯が受け持ちとなった。料理を担当する父も苦戦していたようだ。しばらくは毎日、同じメニューが続いた。唐揚げはべちょべちょでまずかったが、文句を言わずに食べた。

 ある日、日記に挟んでいた母の電話番号のメモが父に見つかり、捨てられた。許せなかった。母の悪口をいう父に「お母さんに付いてけばよかった」とわざと言ったこともある。お父さんを怒らせる、って分かっているのに。

 行き場のない思いが込み上げてくると、父と母の名から一文字ずつとって付けたという自分の名前を心で唱える。それは、母とのつながりを感じるおまじないのようなもの。心がふと軽くなる。これまで何度も繰り返してきた。

■離婚の問題については子どもは「付属品」なんだなって
 きっと父は、私たちが母に会えば取られてしまうと思っている。そういうところは「面倒くさいなあ」って思う。そもそも離婚するとき、両親にも調停員にも「誰と暮らしたいか」「どう思ってるか」なんて自分の意見は聞かれなかった。子どもの未来にとって大きいことなのに、離婚の問題については子どもは「付属品」なんだなってつくづく思う。

 女子高生は洗濯が得意になった。しわができない干し方も我流で習得した。父も調理の腕を上げた。唐揚げは、ニンニクが効いてカラッとおいしい。今では一番好きなメニューだ。

 高校生になってから、父は手作りの弁当も持たせてくれる。感謝しなきゃ。だけど毎日、その日の弁当の写真をラインで送ってくるのは「理解不能」だ。「頑張っているアピール」なんだとは思うけど、ちょっとうざい。

 父からは、ラインのメッセージもたびたび届く。「これ読んで」とお薦めのネット記事を送ってきたり、「明日雨みたいだぞ」とつぶやいてきたり。友達と遊ぶと言うと「誰とどこに行く?」「何時に帰る?」と口うるさくて困る。

 そんな父に対して「過干渉なんだよ」と時々爆発するが、一向に変わらない。ただ、互いに言いたいことを言い合えている。今の家族のバランスはけっこういいと思う。

 両親のけんかはもう見たくない。もう一度やり直してほしいとも思わない。母にどう向き合えばいいかは正直、分からない。でもいつか、以前のように普通のおしゃべりがしたい。「私にとっては何があってもお母さんはお母さんで、お父さんはお父さん」。それはずっと変わらないと思っている。

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