諭吉と桜痴

 3日は福沢諭吉の命日「諭吉忌」だった。諭吉は幕末に約1年間、長崎に滞在して蘭学(らんがく)を学んだ▲諭吉は1901年に66歳で亡くなった。数ある追悼文の中でも、長崎出身の文筆家、福地桜痴(おうち)が書いた「旧友福澤諭吉君を哭(こく)す」は名文として名高い▲桜痴は現在の長崎市油屋町生まれ。若くして江戸に出て英語塾で諭吉と出会い、40年にわたり友情を結んだ。明治初期には新聞人として言論界で活躍し、諭吉と共に「天下の双福」と並び称された▲諭吉は独立を旨として政官界と距離を置いた。慶応義塾を創立し、不偏不党を掲げる時事新報を創刊。一貫して思想と教育の道を歩んだ。片や桜痴は明治政府の官僚や国会議員を務めたり、劇作家に転身したりと流転の人生だった▲桜痴が諭吉への追悼文で「欧米文明を咀嚼(そしゃく)して日本化したのは君の外に誰がいようか」「君の名声は千年でも伝わる」と評した通り、いま諭吉の名を知らぬ人はほぼいない。一方、多彩な事績を残しながらどこか中途半端な印象を与える桜痴は、しばしば「失敗者」と語られてきた。現代の知名度は高くない▲長崎市出来大工町の路地には諭吉が使っていた井戸が残る。井戸は簡易な建物で覆われ中は見えない。「双福」の声価を分けたものは何だったのか。井戸の前で諭吉と桜痴をしのんだ。(潤)

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