清原和博を3球三振に仕留めた!独特のキャラが人気を博して観客動員に貢献した「野獣」とは!?【プロ野球助っ人外国人列伝】

助っ人外国人列伝/バファローズ編

日本球界を彩ってきた助っ人外国人選手たち。「ラブすぽ」が独自に選んだ名選手10名を紹介する。

独特のキャラが人気を博して観客動員に貢献した「野獣」!アニマル・レスリー

【番外編】アニマル・レスリー

〈NPB通算データベース〉
・勝利 7勝
・敗戦 5敗
・セーブ 24
・防御率 3.00

喜びを全身で表す文字通りの「野獣」

前回紹介したリチャード・デービスのように、野球のプレー以外の部分で脚光を浴びてしまういわゆる「お騒がせ助っ人外国人」は少なくない。

だが、今回紹介するアニマル・レスリーもある意味で「お騒がせ助っ人外国人」だが、闘志溢れる投球や打者を抑えたときのパフォーマンス、そして引退後のさまざまな活動で記憶に残る選手だ。

1958年にカルフォリアで生まれたアニマルことブラッドリー・レスリー。プロ入り前の経歴はわかっていないが、1978年にMLBドラフト1巡目の高評価でレッズに入団する。

1982年にメジャーに昇格し、デビュー戦で送球の遅れたチームメイトの先輩にぶちキレたことから「アニマル」「野獣」のニックネームが付けられる。

この年はセットアッパーやクローザーとして登板して防御率2.58とまずまずの成績を残し、セーブ成功後の雄叫びや喜びを全身で表現するパフォーマンスはアメリカでも有名だった。

アニマルが所属していたレッズがアストロズと対戦した際、相手チームの超大物投手であるノーラン・ライアンが三振を奪うと、アニマルのパフォーマンスを真似して両ベンチが大爆笑したというエピソードは有名だ。

ただ、成績のほうは伸び悩み、1985年にブルワーズに移籍するも登板は限定的だった。

独特のキャラが人気を博して観客動員に貢献

「アメリカにハングリーで野獣のような面白い投手がいる」。この話に興味を持ったのが、阪急を長年指揮した上田利治である。投手としてのスキルのほかに、アニマルのキャラクターに惹かれた上田利治は、自身が渡米して入団交渉を開始。その熱意が伝わり、アニマルはメジャー時代より安い年俸で阪急入りを決断した。

来日したアニマルは2メートルの長身、さらに長髪にヒゲもじゃと「野獣」を地でいく風貌で注目され、春季キャンプから独特で明るいキャラクターで人気者となる。

1986年のシーズンは開幕から阪急の抑えを任され、チームが勝利するとアニマル劇場の開幕だ。まず全身を使って喜びながら雄叫びを上げ、続いて女房役の藤田浩雅に頭突きやパンチを食らわせてスキンシップを取る。ときには監督を突き飛ばし、上田も苦笑いするしかなかった。

どうしても派手なパフォーマンスに目がいってしまうアニマルだったが、メジャー譲りのマウンドさばきはなかなかのもの。長身から投げ下ろす重量感あるストレートを軸に、スライダー・カーブ・チェンジアップ・フォークなど複数の変化球を操り、見た目から想像できない繊細な投球でセーブを重ねた。

「野獣」フィーバーに沸いた阪急は、4月上旬に行われた西武と3連戦で計10万人の球団史上最高の観客を動員。これはルーキーだった清原和博の影響もあったが、アニマルのグッズはすぐ売り切れる人気ぶりだった。ちなみにこの3連戦でアニマルは清原和博を3球三振に仕留めている。

こうして1986年のシーズンは5勝、19セーブ、防御率.2.63の成績を収めただけではなく、球団創立50年目にして初の観客動員100万人突破の立役者となった。

引退後はさまざまなジャンルで才能を開花

日本での「野獣」フィーバーに気を良くしたアニマルは、助っ人外国人としては異例の秋季キャンプに参加する。お寺で座禅を組んだり、大相撲観戦をするなど日本文化も学び、その視線は来季に向いていた。

しかし1987年のシーズンはセーブ数が減り、ピンチを拡大させて後続投手に托す場面が増えてしまった。調子は最後まで上がらず、8月に二軍落ちしてシーズンが終わってしまう。

そして、アニマルはチームに迷惑をかけたくないと現役を退いた。引退後はビートたけしの門下チーム「たけし軍団」の一員となり、福本豊に名付けられた芸名「亜仁丸レスリー」としてテレビ番組やCMなどさまざまなジャンルで活躍する。

多くのタレント活動のなかでも、カンヌ国際広告映画祭でグランプリを受賞した日清カップヌードルのCMにおける「ハングリー?」のナレーションは有名だろう。

アメリカ帰国後は少年野球のインストラクターに携わり、少年野球をテーマにした『リトル・ビッグ・フィールド』など、複数の映画に出演する俳優として活動。

だが、腎臓に問題を抱えていたアニマルは2012年頃から病状が悪化してしまう。そして、2013年に腎不全により死去。まだ54歳の若さだった。

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