【名馬列伝】最強牝馬の称号を手に入れていた女傑ヒシアマゾン。「まるで“ワープ”した」と驚嘆した伝説の鬼脚

エアグルーヴの天皇賞(秋)制覇に端を発する「牝馬の時代」が始まるのが、1995年のこと。それに先駆けて、牡馬を相手にしながら互角以上の戦いを続けた”女傑”がアメリカ生まれの外国産馬、ヒシアマゾンである。

父はブリーダーズカップ・ターフなど米国の芝戦線でGⅠを6勝し、種牡馬としても愛ダービーを制したザグレブ(Zagreb)など多数のG1ウィナーを輩出したシアトリカル(Theatrical)。母ケイティーズ(Katies/父ノノアルコ)は愛1000ギニー(G1)などを制した名牝で、父・安倍雅信の時代から『ヒシ』の冠号で知られたファミリーオーナーである阿部家の子息、阿部雅一郎によって1989年、米国ファシグティプトン社が開く繁殖牝馬セールにおいて100万ドルという高額で落札された(当時、名馬にして名種牡馬のアリダー⦅Alydar⦆を受胎していた)。

しかし、ケイティーズは日本へ輸入はされず、のちにヒシアマゾンを管理することになる調教師・中野隆良のアドバイスを受けて米国ケンタッキー州にある名門牧場のテイラーメイドファームに預けられ、そこで繁殖生活を続けた。

1991年、米国でケイティーズが産み落とした父シアトリカルの牝馬がのちのヒシアマゾンで、彼女は初期調教を終えたのち日本に輸入され(生産者の名義は「Masaichiro Abe」)、縦横無尽な活躍を見せることになる。預託されたのはもちろん安倍の盟友である中野隆良厩舎だった。

名前に「アマゾン」という言葉が用いられた正確な意味ははかりかねるが、一般的には中世のトルコを中心に存在し、トロイア戦争でも活躍したとされる最強の女性戦士たちの呼び名である。JRAの公式では「古代ギリシャ伝説に登場する勇猛果敢な女武将で名高い部族の名前」と記されている。
ヒシアマゾンは全20戦中18戦で手綱を取ることになる中舘英二とのコンビで臨んだ2歳9月の新馬戦(中山・ダート1200m)を辛勝すると、次走のプラタナス賞(500万下、東京・ダート1400m)、初芝となる京成杯3歳ステークス(GⅡ、東京・芝1400m)を連続2着と健闘した。

続く阪神3歳牝馬ステークス(GⅠ、阪神・芝1600m/現・阪神ジュベナイルフィリーズ)は重賞ウィナーが顔を揃えるなか、単勝オッズ5.2倍の2番人気という高い支持を受けて臨んだ。

レースは驚愕の内容となる。ヒシアマゾンは逃げたシアトルフェアーを先に行かせて3番手を追走。絶好の手応えで直線へ向くと瞬時にして先頭に躍り出て、あとは後続との差を開くばかりのワンサイドゲームを展開。ゴールでは2着のローブモンタントに5馬身もの差を付けて圧勝を飾った。

そしてヒシアマゾンは文句なしの投票結果で、1993年度のJRA賞最優秀3歳牝馬(現・2歳牝馬)に選出され、世代の頂点に立った。 当時(1994年時点)はまだ外国産馬にクラシック競走は開放されてはおらず、ヒシアマゾンを管理するオーナーと中野調教師は、同馬の春季ローテーションでたびたび苦慮を迫られることになるのだが、ヒシアマゾンは与えられた舞台でしっかりと結果を残し続ける。

初戦の京成杯(GⅢ、中山・芝1600m)こそ2着で取りこぼしたものの、その後のクイーンカップ(GⅢ、東京・芝1600m)、クリスタルカップ(GⅢ、中山・芝1200m)、ニュージーランドトロフィー4歳ステークス(GⅡ、東京・芝1600m)をいずれも圧勝。力の違いを見せつけた。

なかでも、いまだに語り草となっているのはクリスタルカップでの奇跡的な追い込み勝ちである。

このレースは、まずスピードに優るタイキウルフがマイペースの逃げに持ち込み、直線半ばにあっても後続に数馬身の差を付けて勝負は決まったかと思われた。芝では初の1200m戦に挑んだヒシアマゾンは鞍上に押されながら中団を追走するのがやっとの有様だったが、直線で外へ持ち出されると持ち前の鬼脚が炸裂。残り100mほどで、まだ先頭のタイキウルフまで4~5馬身ほどの差があったが、これを一気に差し切ると、ゴールでは1馬身差を付けて勝利をものにしてしまったのだ。

人呼んで「ワープ(瞬間移動)」。アニメ『宇宙戦艦ヤマト』で有名になったこのフレーズが、この日のヒシアマゾンの驚異的な末脚に贈られた。

このフレーズが使われたのは、英チャンピオンステークス(G1、ニューマーケット・芝10ハロン)の優勝をはじめ、欧州のG1レースを9勝して、世界各国へ遠征しながらタフに活躍したある名牝に贈られて以来のことだった。

その馬は当時、固い決意でさまざまな政策を断行した英首相マーガレット・サッチャーのニックネームにならって「鉄の女」と呼ばれた牝馬トリプティク。彼女が1987年のジャパンカップ(GⅠ、東京・芝2400m)の前哨戦として出走した富士ステークス(オープン、東京・芝1800m)で、最後方を進みながら残り200mほどで一気に突き抜け、2着に5馬身もの差を付けて完勝した。その時に「まるで『ワープ』したようだ」とファンやマスコミを驚嘆させたときに使われたものだった。評論家の井崎脩五郎をはじめ、今でもこの一戦を「伝説的なレース」と呼ぶ人は少なくない。
その秋、ヒシアマゾンはクイーンステークス(GⅢ、中山・芝2000m)、ローズステークス(GⅡ、阪神・芝2000m)を連勝し、いよいよ念願のGⅠエリザベス女王杯(京都2400m)に臨む。

オークス(GⅠ、東京・芝2400m)を快勝したチョウカイキャロルや、そのオークスで僅差の3着に入ったアグネスパレードらを差し置いて、ヒシアマゾンは単勝オッズ1.8倍の圧倒的1番人気に推された。

レースは先に抜け出した2頭を猛追し、3頭がひと塊となってゴールした。スタンドの観客がどよめくなか写真判定の結果が発表され、ヒシアマゾンがチョウカイキャロルをハナ差抑えて勝利を手にしていた。ちなみに、アグネスパレードはさらにクビ差の3着と、こちらも接戦だった。

こうして彼女は重賞6連勝という快記録を成し遂げて戴冠。名実ともに4歳最強牝馬として君臨した。 その後も、同年の有馬記念(GⅠ、中山・芝2500m)で三冠馬ナリタブライアンの2着、翌年のジャパンカップでランド(ドイツ)に次ぐ2着と、牡馬と互角以上の戦いを演じた。だが一方で、1996年のエリザベス女王杯では2位に入線したものの、斜行によって他馬の進路を妨害したことから7着に降着となる残念なレースもあった。

そうした中でもヒシアマゾンは、1993年の最優秀3歳牝馬に続き、翌年は最優秀4歳牝馬、翌々年には最優秀5歳以上牝馬のビッグタイトルを手にしていった。

1997年も現役を続行する予定だったヒシアマゾンだったが、調教過程で右前肢に浅屈腱炎を発症していることが判明し、引退・繁殖入りが決定。日本でヒシマサルとの牡馬を出産したのち、米国のテイラーメイドファームへ出国。繁殖生活を送ったのち、2019年4月に老衰のため28歳で没した。
外国産馬へのクラシックレースの開放が進んでいたら、ヒシアマゾンの運命はまったく別のものになっていた可能性が高く、今でもそう認識しているファンが多いのも確かである。しかし、彼女にとっては不自由なレース選択が強いられた中で、その逆境に抗ったがゆえに強烈な印象を刻んでくれたのではないかと、筆者は思う。まぎれもなくヒシアマゾンは、90年代を代表する名牝の1頭である。(文中敬称略)

文●三好達彦

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