批評的な知性や感性が難局に立たされているーー渡邉大輔『謎解きはどこにある』×若林踏『新世代ミステリ作家探訪』対談

2023年は、ミステリ小説に関するガイドブックや評論が多く刊行された。そのなかでインタビュー・シリーズの第2弾『新世代ミステリ作家探訪 旋風編』をまとめた若林踏は、『十四人の識者が選ぶ本当に面白いミステリ・ガイド』(杉江松恋監修)、『ミステリースクール』(講談社編)というガイドブックにも参加した、このジャンルを専門とする書評家である。一方、評論書『謎解きはどこにある 現代日本ミステリの思想』を上梓した渡邉大輔は、文芸批評も手がける映画史研究者であり、現代思想の知見を援用する批評家だ。書き手として対照的な2人に、近年のミステリの動向について話しあってもらった。(円堂都司昭/1月16日取材・構成)

■批評的な知性や感性が難局に立たされている時代

――お互いの本の感想から。

若林:僕が『新世代ミステリ作家探訪』(2021年)と『同 旋風編』で作家たちに話を聞き、モヤモヤして言語化できなかったことが『謎解きはどこにある』で的確に言葉にされていました。特に「オブジェクト指向化」(2010年代の日本の本格ミステリでオブジェクト=モノというテーマが前景化したとする指摘)という用語です。

『探訪』2冊を通じて特殊設定ミステリの話が多かったんですが、さかのぼれば山口雅也『生ける屍の死』(1989年)があったし、海外にもランドル・ギャレットの魔術師が登場するダーシー卿シリーズ(1960-70年代)があった。でも、例えば近年の斜線堂有紀『楽園とは探偵の不在なり』(2020年)は、2人を殺した人間を天使が強制的に死へ導く設定だけど、世界にあらかじめ組みこまれたシステムだとされ、無機質な印象です。それこそモノみたいな感覚。

かつての山口作品はもう少し詩的だったし、哲学的なところへ踏みこんで謎解きをした。でも、斜線堂さんや白井智之さんなど最近の特殊設定ミステリには、そうした要素はありません。この肌触りの違いを思った時、「オブジェクト指向化」という読み解きは腑に落ちる。

また、「編集者化」の話が出てきますよね。円堂都司昭さんも『「謎」の解像度 ウェブ時代の本格ミステリ』(2008年)で触れた論点ですけど、『探訪』で「編集者化」を一番感じたのは円居挽さんでした。ノベライズの対象となる作品からいろいろなものをサンプリングし解釈して組みあわせていく。ライター気質かと思ったんですが、むしろ編集者的なセンスだということも『謎解きはどこにある』で言語化されている。

渡邉:僕は、実はあまりインタビューという仕事をしないままやってきた書き手だというコンプレックスがあるのですが、まずは、多読多識に裏づけられた、若林さんの聞き手としての巧みさに終始舌を巻きながら拝読しました。個々の作家さんたちの章で、意外な裏話が知れて楽しく読んだり、勉強になったりしたのですが、何より、若林さんの本は、形式的には、書評家が作家にインタビューするスタイルを採っていますけれど、若林さんにミステリの該博な知識と固有の問題意識があるので、全体を読むと一貫した批評性がある点が類書と決定的に異なると思いました。僕は批評家を自認して20年近くやってきたのですが、文芸も映画も、今は批評的な知性や感性が難局に立たされている時代です。逆に、社会的な需要という点では、作家の思いをわかりやすく伝えてくれる書評家の方が、現代では存在感やニーズがある。若林さんのお仕事の場合、そうした文脈も踏まえながら、批評性と広範な読者に伝えることのバランスが絶妙なんです。

――若林さんは「小説宝石」1月号で「インタビュー仕事も立派な批評だ」と書かれていた。

若林:僕も批評に関する問題意識がありますし、その批評よりもライター仕事は低くみられている感覚があって、原稿に書きました。書評、インタビュー、対談、イベント、どれでも自分のなかの批評的なものをぶつけないと響いて返ってこない。まずはそれをぶつけるべきだという意味で、インタビューと批評に開きはないはずだということです。

渡邉:僕は常々、「批評」とは、ジャンル形式や職業というよりも、本質的には、作品や物事に向き合うアティチュードというかスタンスのことだと言っています。したがって、「批評的」でない批評家もいるし、若林さんのおっしゃるように、「批評的」なレビュアーもいる。あるいは優れて「批評的」な作家や映画監督もいます。ジャンルとしての書評と批評にヒエラルキーを付けるのはナンセンスですが、少なくとも『探訪』は、非常に批評的なアティチュードで書かれている。どのくらいコンセプチュアルに考えられているんでしょうか。

若林:ある程度「今回はこのテーマで喋りたいな」という形で人選をしていたのですが、特に一冊目の方はその傾向が強かったですね。よく「本格ミステリの作家に限ったんだね」といわれますが、そんな意識はなかった。澤村伊智さんならホラーとミステリの融合、呉勝浩さんなら犯罪小説という風にテーマ優先でした。逆に2冊目は、わりと流れるままに聞きました。『旋風編』では、読書体験がミステリに依存していない人が多かったですね。僕がジャンルの常識を持ちこんで話そうとしても通用しなくて、感覚が違うのが興味深かった。

渡邉:『旋風編』は、私たちと近い世代の作家さんたちに取材していて、その点でも面白かったです(渡邉1982年生まれ。若林1986年生まれ)。今村昌弘さんは少年時代、住んでいたのが地方で「メフィスト」(講談社のミステリ雑誌)系の小説を読んでいらっしゃらなかったというのは驚きました。作品からは想像できないですから。

若林:今村さんはライトノベルを読んでいたと聞いていたし「メフィスト」はかじっているだろうと思ったら、本屋で売っていなかったという。僕は千葉県出身ですけど、近所に本屋がそもそもない。あってもノベルスの棚がない。関東圏でもそういうエリアがあります。

渡邉:『謎どこ』の冒頭でも書いたように、僕も10代を北関東の田舎町で過ごし、ロードサイドのTSUTAYAとかしかなかったのでよくわかります。

若林:『旋風編』で紺野天龍さんから『神薙虚無最後の事件』(2022年)を書いたきっかけとして、城平京『虚構推理』(2011年)の話が出てきました。『謎解きはどこにある』では「検索型ミステリ」(作中で現代の情報検索技術に類する推理がみられる傾向)が重要な論点ですが、『虚構推理』はまさにその要素をはらむ作品。ただ、紺野さんは同作について、震災の頃の暗い気分を吹き飛ばしてくれたと話していて、あれ、多重解決の構造の話にならなかったぞと正直思いました。でも、たった1つの真実を見つけるのではなく、複数ある解から1つの事実を選び、真実だと規定してしまう。そういうあり方自体、今ではスタンダードになりつつありますけど、それをある程度形作った『虚構推理』は重要だと考えているんです。

■文芸は2007年前後が重要

渡邉:『謎解きはどこにある』には2つ論点があるんです。1つは現在のミステリ作家にライトノベルをはじめ、マンガ、アニメのようなポップカルチャー的な想像力が浸透していること。もう1つは、まさに「検索型ミステリ」というコンセプトに結実した、検索サービスに代表される情報技術、スマートフォンやAIなどのテクノロジーやツールが入りこんでいることです。それでいうと、『探訪』では、ゲームの影響とかポップカルチャーの話は結構出てきますが、限界研『21世紀探偵小説 ポスト新本格と論理の崩壊』(2012年。渡邉も寄稿)でも論じられたような、携帯電話の登場で推理の過程が中抜きされるようになったとか、情報ツールからの影響は、さほど話題に出なかったのが印象的でした。

若林:出なかったですね。ただ、技術がなにをもたらすかに興味があるミステリ作家はいるし、1冊目で逸木裕さんがAIの話をしていましたし、阿津川辰海さんも同書登場の後に『録音された誘拐』(2022年)でデジタル技術が誘拐ミステリになにをもたらすかを書いていました。インターネットやモバイル端末などが話題にならなかったのは、すでに当たり前のものと受けとられていることも大きいと思います。

渡邉:まさに擬似自然になっていますものね。

若林:面白かったのは『旋風編』で浅倉秋成さんが、ジャンル意識はあまりないと話していたこと。新聞のラジオテレビ欄でアニメを探して片っ端から見たからだというんです。前時代的な紙の新聞から情報をとりこんだ結果、ジャンルに関係ないデータベースが自分のなかにできた。デジタル技術云々とはべつに、情報収集の仕方がみんなバラバラだったのかもしれません。今村さんもそうだし、日部星花さんは学校の図書館にマンガが置いてあったそうです。

「検索型ミステリ」なら、意外と海外作品にあるかもしれません。ホリー・ジャクソン『自由研究には向かない殺人』(2019年)は、高校生がSNSから情報収集する話ですけど、結果をポッドキャストで随時報告する。特権的な立場でもない、イギリスの田舎町にいる普通の女の子がそうして発信し推理する。日本にありそうであまりなかった内容だと感じました。

膨大なデータベースから情報を引っ張って推理を組み立てるものは、プロファイリングを使ったシリアルキラーもので以前から書かれていたともいえます。映画になった『羊たちの沈黙』(原作トマス・ハリス。1988年)のインパクトが日本でもありましたけど、過去にも例えば、ペール・ヴァールーとマイ・シューヴァルの共著『バルコニーの男』(1967年)で一種のプロファイリングが出てきた。クローズドの限定された人々から容疑者を選ぶのではなく、群衆に紛れた獣みたいなやつをどうやって見つけ出すかという話です。膨大な情報から探さなければいけないという感覚は、欧米ミステリの方が潜在的に持っていたのかもしれない。

渡邉:そのように補足していただけると、とても勉強になります。僕は『謎解きはどこにある』では、かなりニッチな関心に基づいて、現代日本のミステリ作家と扱う文脈を限定したんです。具体的には、20歳前後に「ファウスト」(講談社の雑誌。中心的な作家に西尾維新、舞城王太郎、佐藤友哉など)系の作家たちと出会い、これこそ自分たち世代固有の文学運動だと、とても感激したんですよ。小中学校から小説が好きでしたが、日本の近現代文学をたどると、白樺派や内向の世代など時代ごとに青年が憧れた文学運動があって、それが時代のとらえ方を更新していたじゃないですか。「メフィスト」系、「ファウスト」系こそ僕ら世代の文学運動だと興奮して、その批評の面の先導者として笠井潔さんや東浩紀さんがいると状況を見ていた。それが、僕の批評の出発点の1つでした。若林さんは当時、どう受けとめていましたか。

若林:ミステリというジャンルのものさしで測っていた部分が強いですね。ジャンルにどっぷり浸かった人間だったんです。「メフィスト」のメフィスト賞の歴史をふり返ると、アバンギャルドなことをやる人もいれば、端正な本格ミステリを書く人もいた。凝り固まったジャンルの概念を、その都度塗り替えていく作家が登場してきたじゃないですか。そもそも第1回の森博嗣さん、流水さんもそうでしたし。

僕がメフィスト賞作品を意識的に読み出したのは、第13回の殊能将之『ハサミ男』(1999年)が最初。殊能さんは変なものを書きましたけど、根っこにある本格ミステリを肥しにしていた。西尾維新さんも第23回の『クビキリサイクル』(2002年)は大トリックを使ったミステリだったし、第24回の北山猛邦さんは物理トリックのど真ん中だった。なので、僕は東浩紀さんの評論も読んでいましたけど、文学運動とはとらえていませんでした。

渡邉:世代は近くても、全然違う視点から同じカルチャーを受容していたのが面白いですね。僕は脱ジャンル的にとらえていたというか、2000年代はじめに西尾維新や佐藤友哉がデビューした頃、金原ひとみと綿矢りさが芥川賞を受賞して、ミステリに限らず若手作家ブームでしたし、それらを並行的に見ていました。

映画もそうですけど、文芸は2007年前後が重要ととらえています。私は歴史(映画史)研究が専門ということもあり、歴史的な状況を俯瞰するにあたって、メルクマール的な年を設定し、その前後をジャンル横断に見て批評的文脈を作るのが好きなんです。この前後というと、川上未映子の芥川賞、桜庭一樹の直木賞受賞がともに2008年です。ミステリだと、その数年前に『容疑者Xの献身』論争があったり、SFでは伊藤計劃がデビューした。脱ジャンル的に新しい動きが起きていたんです。ボーカロイドの初音ミク発売も2007年。書籍自体で若者の支持を集めるようなコンテンツは目立たなくなり、「カゲロウプロジェクト」などのボカロ小説、ゲーム実況、ツイッター(現X)、ニコニコ動画、iPhoneなどインターネットに面白いことが拡散する境目が、ウェブ2.0といわれたその頃だと思っています。そのなかでミステリの動向も追った感じです。

――2007年は『謎解きはどこにある』第一章の埴谷雄高論のもとになった原稿が「群像」に発表された年ですね。当時の同誌編集長は、それ以前に「メフィスト」の部署にいた唐木厚氏。渡邉さんの埴谷論は、戦後文学の形而上小説『死霊』(1946-95年。未完)を「ファウスト」系の文脈で読み直すようなものですね。

渡邉:おっしゃる通りです。当時の「群像」の埴谷特集では、本格ミステリ作家の法月綸太郎さんも埴谷論を書いていました。

若林: 2007年は、早稲田大学のワセダミステリクラブへ僕が入って2年目の頃です。みんな、あまりミステリの話をせず、なにを話すかといえばアニメとか、どちらかというとボードゲームをする人が多かった。人狼ゲームは2010年代以降にポピュラーになりましたけど、サークルで流行っていました。ボードゲーム的な謎解きや論理ゲームは好きだけど、小説となると本格ミステリ嫌いが多い。なぜかずっと疑問でしたけど、渡邉さんの本にもある通り、謎の論理的解決の形式にこだわりがなくなる一方、論理の応酬さえあってピンポンみたいに続くのが好まれていた。でも、それが小説にむかわなかった。

■ミステリ的な想像力が二極化している

渡邉:本を書き終えた後に、もっと展開すればよかったと思った論点が1つありました。拙著では、現代ではミステリ的な想像力が二極化しているということを述べています。一方の極は、藤田直哉さんの『娯楽としての炎上』(2018年)とか、笠井潔さんとかも書いていますが、ポスト・トゥルースという言葉が流行ったように、現代では、人が客観的な唯一の真相にこだわらなくなってきた。米澤穂信『インシテミル』(2007年)の世界ですね。「みんなが思う真相っぽい真相でいい」みたいな、真相のマルチバース的なリアリティがミステリでも描かれるようになった。また、『謎解きはどこにある』では稲田豊史『映画を早送りで観る人たち』(2022年)に触れましたけど、ミステリの長い話を観るのに疲れて、コスパ重視、タイパ重視でサクッと面白いものが見られればいいとなっている傾向もこれに関係しています。

一方、去年の『VIVANT』とか、考察ドラマの謎解きを楽しむ世界も有力さを増している気がします。それに関して、書評家の三宅香帆さんやライターの飯田一史さんが、最近、「批評」の時代が終わり「考察」の時代になったというようなことをいっていますね。批評とは、一つの作品には解釈の多様性があり、いかに多様な読みを生み出せるかに価値とみる考え方。一方、考察は、陰謀論的な発想にもつながりますが、本当はこうですと単一の真相があるようにいう。例えば、大学の講義で、映画について僕なりの批評的な読みを解説すると、「そうだったんですね!」と解釈の1つではなく、それが真相だと受けとるような、ある意味で素朴な反応が、ここ数年で目立ってきた実感を持っています。こういう点でも、ミステリに限らず、謎や真相に対する感じ方が変わったのではないか。

若林:YouTubeを見ていると『ONE PIECE』の考察系ショート動画が多く流れてきて、「これは作者が仕込んだ伏線に違いない!」という風に投稿者が様々な考察を披露するんです。それは作品の鑑賞というより、「これこそ作者が描きたかった真実である」という唯一無二の答えを多くが知りたがっているように見えるんですよ。この感覚はどこからくるのか、ミステリに寄せて考えると、2010年代はどんでん返しものが多かった。どんでん返しってワンアイデア的なものですよね。真相はこうだと思ったけど実はこうでしたと、一発あればいい。ひっくり返しがあるはずという願望と、それさえあれば満足する傾向がある。

渡邉:批評が読まれなくなって動画ばかり見るようになった。活字ではなく語りですよね。

若林:誰が語るか、誰が楽しい気分にさせてくれるかに依存しているところがある。僕が杉江松恋さんと書評動画(「ミステリちゃん」)を撮る時、評者のキャラで見てもらうより、作品の構造をどう読むかを解説したい。だけど実際は、喋りのテンションでかさ増ししている部分もあるのではないか、と自分で不安になりますし、悩ましい。

――それぞれ近年に面白かったミステリ小説をあげてください。

渡邉:若林さんほど、新刊を満遍なく読めておらず、心許ないのですが……。それでも、京の冒頭で出た「オブジェクト指向化」というテーマだと、ここ20、30年くらいメタ的、観念的な仕掛けがトレンドになりましたけど、杉井光『世界で一番透き通った物語』(2023年)はそういう部分がありつつ、電子化が進むなかで書籍、活字というオブジェクトそのものをある種のミステリ的な趣向にしていて感心して読みました。

若林:注目しているのは、方丈貴恵さんです。特殊設定ミステリ流行の理由を考えるのも重要ですが、あれがなにをもたらしたかを考えるのも重要でしょう。その1つにミステリで物証を重視する大切さが再認識されつつあると、『孤島の来訪者』(2020年)など方丈作品を読んで感じます。特殊設定は、特異な世界が提示され、作者の恣意的な部分も含まれていて、読み手としてはなにが起こるか信用ならない。だから、謎を解くための確固たる物証がどこかにあるはずだという、読者の信頼を担保しなければならない。その点、方丈さんは、謎解き作家として優れている。阿津川辰海さんもそうです。

端正な本格をバックラッシュとする見方がありますけど、僕はそうは思いません。特殊な状況下を描くものが流行ったからこそ、ミステリとしてパッケージするために手がかりの重視が強まっている。そう考えるのが正しいと考えていますし、それを優等生的な本格と否定的にいうことには違和感を覚えます。

――今日、タイプの違う書き手同士で話してきて、いかがでしたか。

若林:僕は抑えているつもりなんですが「熱量ありますよね」と意外にいわれるんです。書評家として非常に有難いと思う反面、熱量のあるなしのみならず、いかなる切り口を持って評しているのかにも着目してもらいたい気もしています。その意味でいろんな切り口から言葉にしてくれる批評書は大事だし、『謎解きはどこにある』は、僕のなかのモヤっとしたものを形にしてくれてありがたかったです。

渡邉:僕の場合、これはミステリかそうではないのか、映画評でも映画なのかそうではないのかという、ジャンルが生成したり変容したりするところに関心がある。変なポジションですし、カッコつきの「マイナー」な批評家だと思います。ただ、僕のようなニッチな書き手が機能するのは、当たり前のことですが、若林さんのようなジャンルについて豊かで正確な知識を持っている方がいらっしゃるからこそです。今日は、若林さんの胸を借りることで、いろいろな示唆をいただきました。今後も、相乗効果で刺激を与え合いながら、ミステリというジャンルを盛り上げていけたらいいなと思っています。

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