開幕からわずか48試合で打率.378/24HR/60打点と驚愕の成績を残した!ヤクルトとバファローズを初優勝に導いた「元祖優勝請負人」とは!?【プロ野球助っ人外国人列伝】

助っ人外国人列伝/バファローズ編

日本球界を彩ってきた助っ人外国人選手たち。「ラブすぽ」が独自に選んだ名選手10名を紹介する。

ヤクルトとバファローズを初優勝に導いた「元祖優勝請負人」!チャーリー・マニエル

【4位】チャーリー・マニエル

〈NPB通算データベース〉
・打率 .303
・本塁打 189本
・打点 491打点

数奇な運命で野球を続けて日本へ

助っ人外国人が日本にやって来る理由はさまざまだ。多くは活躍の場や高額年俸を求めて来日するわけだが、赤ら顔の縮れた赤毛から「赤鬼」の異名を取ったチャーリー・マニエルはそうではなかった。

長身で子どもの頃からスポーツ万能だったマニエルは、一番好きな種目のバスケットボールの才能が評価され、いくつかの大学から奨学金付きの推薦を受けていた。

しかし、高校卒業間近に父親が他界したことで進学を断念。家族を養うために1963年にツインズと契約してプロ野球選手となる。

だが、メジャーに上がるまでに数年を要し、出場しても目立った結果を残せず、1974年にドジャースに移籍。ここでも結果を残せなかったマニエルは生活が苦しくなり、プロ野球界から引退するつもりだったという。

このとき遠く離れた日本では、ヤクルトの助っ人外国人であるジョー・ペピトーンが無断帰国、暴言、私生活のトラブルの問題行動を起こし、日本の野球ファンの間で「助っ人外国人選手排斥論」が叫ばれるようになっていた。

それを重く見たドジャースの会長が日米間における野球関係の悪化を懸念し、ヤクルトへマニエルの移譲を申し入れる措置が取られた。日本球界についてまるで知らなかったマニエルだったが、少しでも高い年俸を稼ぐために日本行きを決意し、1976年にヤクルト入りする。

2チームを初優勝に導いた「元祖優勝請負人」

ヤクルトでの1年目は、体調不良や環境の変化に戸惑ったマニエル。初年度こそ打率・243、11本塁打と平凡な成績だったが、日本に慣れた2年目は首脳陣を驚かす覚醒を見せる。

当時のマニエルは193センチ、91キロの体格でフィジカルの問題はなかった。そのためボールがバットに当たれば、丸太のような腕っ節から打ち出される強烈な打球が放物線を描いてスタンドへ飛び込み、本塁打を量産する。

課題とされた打率も改善し、2年目の1977年は打率.316、42本塁打、97打点の好成績を収め、万年Bクラスだったヤクルトを2位に押し上げている。

迎えた3年目は若松勉や大杉勝男と強力クリーンアップを形成。前シーズンとほぼ同等の成績で暴れ回ったマニエルは、ヤクルトのリーグ初優勝と日本一に大きく貢献した。

ヤクルト創設から初めての優勝にファンは歓喜してマニエルを崇めたが、指揮官・広岡達朗監督の評価は高いものではなかった。そして、守備力と走力が低いことを理由にトレードで近鉄に譲り渡してしまう。

この解雇にマニエルは怒りをあらわにしたが、結果として近鉄への入団は正解だった。西岡幸雄監督から厚い信頼を置かれたマニエルは、指名打者としてのびのびとプレーできるようになり、持ち前の長打力がより発揮できるようになったからだ。

1979年は開幕からわずか48試合で打率.378、24本塁打、60打点と驚愕の成績を残した。このペースならNPBの三冠記録を確実に更新する数字であり、勢いに乗ったチームは首位を独走する。

残念なことに6月のロッテ戦で顔面に死球を受け、顎の骨が粉砕する重症を負って戦線を離脱したが、マニエルは拾ってくれた近鉄のためにフェイスマスクを付けて早期復帰を果たす。

実際は全治3ヵ月の重症だったことから完治していなかったが、闘志あふれるマニエルはまさに「赤鬼」のごとく打席に立ち、打線の中核として暴れ回った。

途中離脱で出場試合が減ったマニエルのタイトルは本塁打王とMVPだけとなったが、打率.324、37本塁打、94打点の圧巻の成績を残す。この神がかった打撃に後押しされたチームは首位を守り、近鉄も球団創設から初めてのペナント制覇を達成。つまり、マニエルは2年間で2チームの初優勝を導いたのだ。

引退後はメジャー球団の監督して才能を発揮

翌1980年も好調を維持したマニエルは、打率.325、48本塁打、129打点のキャリアハイの高成績を残し、本塁打と打点部門で二冠を獲得する。

近鉄はリーグ2連覇を果たしたが、その原動力は紛れもなくマニエルの存在だ。弱小球団を1年で優勝に導くという大車輪の働きぶりに、「優勝請負人」と呼ばれ、年俸の大幅をアップを実現している。

家族を養うために野球の道に進み、日本で大成功を収めたマニエルは、1981年にヤクルトに出戻ってこの年を最後に現役を引退。その後はメジャーの監督としても成功を収め、インディアンス(現・ガーディアンズ)とフィリーズの指揮官としてワールドシリーズに導く功績を残した。2013年には監督としてMLB通算1000勝を達成し、現在はリタイア生活を送っている。

© 株式会社日本文芸社