「競争があって自分自身も成長できた」ノルディック複合元日本代表・荻原次晴のスキーへの想いと日々を支える食生活

アスリートへのインタビューを通し、明日への一歩を応援する「Do My Best, Go!」。今回登場するのは、スキー・ノルディック複合で長野オリンピックに出場し入賞、世界選手権で団体金メダルを獲得するなど活躍を続けた荻原次晴さん。第一線で活躍した経緯、その土台となる食への意識、今後への思いなどを聞いた。

■スノーボードとの出会い、オリンピックを目指したきっかけ

――スキーを始めたきっかけを教えてください。

3歳からスキーを始めましたが、ふるさとの草津にスキー場があり、うちの父も元スキー選手だったこと、姉が先にスキーを始めていたこと、身の回りにきっかけはたくさんありました。

――その後スキー・ジャンプを始め、中学生になるとノルディック複合を始めたそうですが。

小学5年生のとき友達に誘われてスキー・ジャンプを始めました。最初は怖かったんですが、少しずつ楽しさと空を飛ぶ気持ちよさみたいなのを感じていきました。

当時、草津ではスキー・ジャンプをやる子どもはクロスカントリースキーもやるのが当然のことだったんですね。たぶんコーチとしては、スキー・ジャンプでは北海道の子どもたちにかなわない、ノルディック複合なら良い勝負ができるのではないかという考えがあったのかなと思います。自分で選んだというよりも地域でそれをやるのが当たり前というような流れでした。
――中学生の頃から全国大会にも出て好成績も残していました。競技者として自分の未来をどう考えていたでしょうか。

当時は自分がずっとスキー選手でやっていくとは考えたこともなかったですね。大人になったら、普通に働いて実家の金物屋さんを継ぐのかなと思っていました。

――競技を突き詰めていこうと思われたのはいつぐらいだったんでしょうか。

すごく遅かったです。大学4年のときでした。当時、オリンピックの1992年フランスアルベールビル大会がありまして、兄の健司が団体戦で金メダルを獲ったんです。

一躍日本のスポーツヒーローに踊り出て、国民の皆さんが健司の顔と名前を覚えてくれたと思います。我々は双子で顔がそっくりなものですから僕は一歩外へ出ると健司に間違えられてサインや写真撮影を求められました。でも「僕は健司じゃありません。双子の弟です」と言っても信じてもらえませんでした。

弟と分かっても、「ちぇっ」とがっかりされてしまうこともあり、それがすごく嫌だったんですよね。ときには「嘘つくな」と言われたりして、弟だと正直に言っているのにがっかりされたり嘘つくなと言われるのがすごく悔しくて…。

当時ちょっと自暴自棄になっていたときもありましたけれども、じゃあ自分に何ができるのかなって考えたときに、やっぱり自分にはスキーしかない。ずっとどんぐりの背比べでやってきた健司がオリンピックに出られたのなら、僕も本気になればオリンピック出られるかもしれないという気持ちになりました。■念願のオリンピック出場

――リレハンメルオリンピックの翌シーズンはワールドカップで表彰台に上がり世界選手権団体戦でも金メダルを獲得しました。

なんか奇跡でしたね(笑)。今思うと、草津の田舎の双子の兄弟が国際大会で1等賞、2等賞、よく獲れたもんだなぁって不思議な感じになります。

健司に間違われる悔しさから本気になって再びスキーと向き合って、健司と同じように国際舞台に出てるようになってみて、そこは本当に厳しい世界だと思いました。一競技者としてとことんやらないと戦えないとアスリートとしての覚悟のようなものが醸成されていった時期だったなと思います。

――1998年の長野オリンピック、ついにオリンピックという舞台に立ちました。

実はそのときパフォーマンスが落ちてまして、国際大会でも僕は日本代表の2軍に落ちてたんですよ。代表の中でAとかBとかあるんですけど、僕、Bグループで。成績が悪いながらも、とりあえず日本の中では何番手かに入っていましたので長野の代表に選ばれました。ただ調子が上がらない中でオリンピックを迎えてしまったことで、国民の皆さんが注目する大会で期待に応えられないのではないかという恐怖感がずっとありました。

――その中でまず個人戦を迎え、続いて団体戦。いかがだったでしょうか。

そこはもう開き直りました。個人戦のスキー・ジャンプのときは今までにないぐらい緊張して、もういちかばちかのチャレンジみたいな気持ちで空中に飛び出したら、あれをあれよといい向かい風を受けて、自分のパフォーマンスも良かったんでしょうけど練習ではできなかったジャンプを2本そろえることができました。

そのときに感じていたのが喜びはなくて、発見というか学びというんでしょうかね。気持ち一つで人はこんなに変われるんだ、なんで今までこのぐらいの集中力でやってこなかったんだろうという反省の思いもありました。
――そのジャンプでは日本勢トップの3位、後半のクロスカントリーを終えて6位入賞を果たしました。クロスカントリーでは健司さんと競り合う場面もありました。

我々は双子である、健司がいれば次晴もいる。私は健司の偽物ではないしがっかりされるものでもないし嘘もついてない、それを知ってもらうには健司が一番注目されるステージに一緒に上がって一緒に競い合う姿を国民の皆さんに見ていただくしかない。

そのステージやっぱりオリンピックであるとずっと考えていました。それが実現して、健司に追い上げられて競技者としては負けるわけですけれども、僕のことも認知してほしい、僕も存在していることを知ってほしいという思いがかなったので、やっぱりうれしかったですね。

長野のときは「次晴」という声もいっぱい聞くことができて、ゴールエリアに倒れ込んだときも会場の皆さんから「次晴!」と声援をいっぱいいただいて、ああこれで次晴になれたかな、皆さんに知っていただけたかなといろいろな思いがありました。

――長野オリンピックのシーズンをもって引退されましたが、健司さんはどういう存在だったでしょうか。

私に限ったことではなく、兄弟の存在がすごくあの気になるときはありました。でも振り返ると健司がいたからこそ、いつもすぐそこに競争があって自分自身も成長できて、健司が頑張ってオリンピックに出た姿を見せてくれたからこそ、僕自身もオリンピックというとんでもない大きな夢を持って出場できた。

それがまさに今の私につながっているので、健司がいてよかったなぁと思うことはよくあります。
■食生活で意識してきたこと

――長い競技人生では食も大切だったと思いますが、意識していたのはどのような点でしょうか。

今のアスリートたちのように食事管理の重要性が少しずつ認知されるようになったのは選手の晩年ぐらい頃でしたから、そんなに徹底された感じではなかったですね。ただ、ノルディック複合は激しいスポーツでカロリー消費が大きかったので食事は好きなものを好きなだけバランスよく食べるようにしていました。

試合前は消化に負担のかからないように脂っこい食事は避けるようにしたり、炭水化物をしっかり摂りグリコーゲンを体内に蓄えるカーボローディングを実践したり、レースに影響しないように試合の3時間前くらいには食事や軽食を食べておくということはしていました。

――海外遠征は非常に多い競技ですけれども、海外でも特に栄養にこだわることなく、その場その場で食べていたイメージでしょうか。

そうですね。「郷に入りては郷に従え」という言葉がありますように、遠征ではライバルたちがどんな食事をしているのか、そして同じものを食べて戦うというようなことをやってましたね。
--食材としてのきのこの印象を教えてください。きのこはお好きでしょうか?

はい、好きですね。私はふるさとが群馬の山の中なので、春は山菜、秋はキノコが身近にありましたので、自然にきのこを食べていました。スキーのトレーニングが終わって体が冷えて家に帰るとお袋が作ってくれたなめこの味噌汁とかめちゃくちゃうまくて、思い出の味になっています。

今ではうちの妻が家族の食事を作ってくれますけれども、キノコを使った料理は多いと思います。この季節は鍋の季節でもありますけれどキムチ鍋とか味噌味とか醤油味とかスープは変わってもきのこは必ず入っている印象がありますね。

エリンギをスライスしてシンプルに焼いて塩だけふって食べるのもうまいですよね。あとは舞茸の天ぷらや舞茸のバター醤油炒めもたまらないですね。

--きのこは栄養面が高く低カロリーです。腸内環境の改善の働きもありますが、ご存じだったでしょうか。

選手時代、腸内環境について意識したことはありませんでしたね。引退した今の方が「健康」について考えることが多くなり、自分の健康は家族のためにも大事だと感じています。妻も家族の健康を考えて毎日食事を作ってくれていて感謝です。
■引退後とこれから

――引退されてからスポーツキャスターをはじめ様々な分野で幅広く活動されていらっしゃっていると思いますが、セカンドキャリアをどう設計していたのでしょうか。

引退後のことは考えていなくて、自分には何ができるんだろうってすごく悩んでいた時期がありました。そんなときウィンタースポーツの代表者としてメディアに出るのはどうかとお話をいただいて、チャレンジして今に至るわけです。

――キャスターとしてのお仕事の中から選手や競技への熱、思いがすごく伝わってきます。ソチオリンピックでは渡部暁斗選手の銀メダルに涙を流して喜んでいた記憶があります。

ノルディック複合は注目していただきながらもなかなか皆さんの期待に応えられないシーズンが長く続いて、「荻原健司さんが活躍した時代がありましたよね」って後輩たちがいつもメダルへのプレッシャーをかけられてるんじゃないかと思って、ちょっと兄弟として申し訳ない気持ちがずっとあったんですね。

その中で渡部がメダルを獲ってくれて、喜びと期待をかけすぎてごめんねみたいな申し訳なさが入り混じった涙だったかなと思います。渡部に限らずあらゆるスポーツで頑張ってるアスリートに対し、僕もそういう時代がありましたので、気持ちを重ねながらその選手たちの代弁ができるようなキャスターでありたいなと思っています。

――スキーの普及でも活動されてきました。現在の人口などはどのような感じなのでしょうか。

ピークには1800万人ほどあったスキー人口が今は450万人ぐらい、かなり減ってますで、まあ、昔と比べると余暇の楽しみ方がすごく増えたことがあると思いますが、子どもたちが離れているのではなく、その子どもたちの親御さん、保護者の皆様がスキーにお出かけにならなくなってしまった。

例えばスキー王国札幌市を見ても、野球、サッカーなどのプロスポーツが参入してもう歴史がありますし、人気があります。子どもたちはそういうキラキラしている方に行きがちなのも現状です。ですから、やっぱり雪国の皆さんこそ、大人たちが子どもたちの手を引いてゲレンデに連れてってあげてほしいなと。その中からあのスキーが大好きという子どもたちが誕生して、最終的に競技の道を選んでくれるといいなと思っています。

――スキーに限らずスポーツに励んでいる子どもやジュニア選手に向けてアドバイスをいただければと思います。

偉そうなことは言えないんですが、やっぱり「継続は力なり」という言葉があるように、とにかく続けることです。なぜ私がオリンピックまで行けたかというとスキーを続けていたからなんです。

子どもの頃スキーをやっている友達はいっぱいました。僕よりも上手な友達はいっぱいました。でも様々な理由で1人やめ2人やめ、あたりを見ますと誰もいませんでした。ある意味、それは僕がやり続けていたから、最後に残ってどうにか代表になれた。辛いときもあるとは思うんですけど、続けているうちに、自分が思ってもないようなすごい出来事が訪れるような気がします。続けることが一番大切なことじゃないかなと思ってます。

――2026年にはミラノ・コルティナダンペッツォオリンピックがありますが、それも踏まえつつ、これからの目標をお聞かせください。

長野オリンピック以降の冬のオリンピックは全て現地に取材に行かせていただいています。イタリア大会も現地に取材に行ければいいなと思ってるんですけど、その取材に行くには、今日の行ないがずっと続いていると思うんですよね。

何ができるのかといったらいただいた仕事に対して妥協のないようにベストを尽くせるかということ。そしていつか札幌でも開かれることがあったら、札幌大会にも携われるよう健康で元気で若々しくいたいと思っています。

荻原次晴(おぎわらつぎはる)

1969年12月20日生まれ、群馬県吾妻郡草津町出身
幼少期にスキーを始め、小学生のときにスキー・ジャンプ、中学入学後にノルディック複合を始める。双子の兄の健司とともにスキー・ノルディック複合の日本代表として活躍。
1998年に長野オリンピックに出場、個人6位、団体5位入賞。また1995年世界選手権では団体金メダル、ワールドカップでは2度表彰台に上がっている。1998年に引退。スポーツキャスターをはじめ各メディアで活躍するほか、スキーの普及活動にも携わる。

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