8打席連続四球で幻の三冠王に!日本にデータ野球を持ち込んだ「野球博士」とは!?【プロ野球助っ人外国人列伝】

助っ人外国人列伝/バファローズ編

日本球界を彩ってきた助っ人外国人選手たち。「ラブすぽ」が独自に選んだ名選手10名を紹介する。

8打席連続四球で幻の三冠王となった日本にデータ野球を持ち込んだ「野球博士」!ダリル・スペンサー

【3位】ダリル・スペンサー

〈NPB通算データベース〉
・打率 .275
・本塁打 152本
・打点 391打点

日本にデータ野球を持ち込んだ「野球博士」

野球に限らず、現代のプロスポーツは選手の特徴や癖など、科学的エビデンスは欠かせない要素だ。今から60年前の日本球界にはそうした意識がほとんどなかったが、緻密なデータ野球を日本に持ち込んだのがダリル・スペンサーだ。

カンザス州生まれのスペンサーは、高校と大学時代から論理的なデータ野球を実践し、1952年にメジャー球団のジャイアンツに入団。内野ならどこでも守れるユーティリティプレイヤーとして、入団2年目には20本塁打を放って存在感を見せる。

1954年から兵役で2年間チームを離れたが、復帰後は正遊撃手として長らく活躍し、カージナルス、ドジャース、レッズなど複数の球団を渡り歩いて通算1098試合に出場した。

だが、体力の衰えから成績が下降したスペンサーは、1963年にレッズから戦力外通告を受ける。このときすでに35歳になっており、古巣のジャイアンツは指導者や球団職員のポストを用意していたが、スペンサーが選んだのはまさかの日本行きだった。自身が実践してきたデータ野球に自信を持っていたスペンサーは、日本ならまだまだ活躍できると考えていたからだ。

1964年に阪急入りが決まったスペンサーは、来日時に「阪急を優勝させるために来た。私のバットと頭脳で実現する」と意気込みを語った。

しかし、当時の阪急は1936年の球団創設以来、一度も優勝したことがないBクラスが定位置の弱小球団。そのため多くのマスコミはスペンサーの発言を「ビッグマウス」と冷笑したが、入団後に阪急は大きく飛躍することになる。

8打席連続四球で幻の三冠王に

阪急1年目の序盤は日本の野球に戸惑いを見せたスペンサーだが、実直にデータを収集しながら徐々になれていくと、身長190センチで上体をかがめたクラウチング・スタイルから快音を響き渡らせる。

6月からは打撃の要として躍動し、打率.284、36本塁打、94打点と打撃3部門でチームトップの成績で初年度を終える。スペンサーの活躍でチームは6年ぶりとなるAクラス入りを果たした。なお、1年目の助っ人外国人がシーズン30本塁打以上を打ったのはスペンサーが初めてのことである。

日本で1年間プレーし、メモを取りながら日本人投手の特徴をデータ化したスペンサーは、翌1965年になると打撃に磨きがかかる。

開幕から好打を連発し、8月上旬の時点で打率と本塁打部門で1位、それに肉薄する野村克也が打点部門で1位となり、両者とも三冠を狙える位置に付けていた。スペンサーのこの調子が続けば、助っ人外国人初の三冠王も充分に狙えたかもしれない。しかし、そこには「助っ人外国人にタイトルを渡したくない」という日本野球独特の慣例が立ちはだかった。

野村克也が所属してた南海の投手はもとより、阪急以外の投手もスペンサーとの勝負を避けるようになってしまったからだ。

有名なのがタイトル争いと関係のないオリオンズ投手陣による8打席連続四球だ。8月14〜15日に行われた試合で、オリオンズ投手陣はストレート四球や満塁の場面での押し出し四球などを投じ、意図的にスペンサーとの勝負を避けている。

こうした四球攻めに怒ったスペンサーは、バットを逆さまにして打席に入ったり、敬遠球を無理やり打ったりして抗議するなど、かなりのストレスが溜まっていたという。

結局、この一件で調子を崩したスペンサーは成績が急降下し、三冠王のタイトルを野村克也に譲り渡してしまった。それでも打率.311、38本塁打、77打点の高成績を残しており、「ビッグマウス」でなかったことを証明している。

公約通りに阪急を初優勝に導く

こうしてチームに欠かせない存在となったスペンサーは、不人気球団だった阪急を世間に知らしめ、人気漫画『巨人の星』にも登場。日本シリーズで星飛雄馬と対決する場面に、当時の少年たちは胸を熱くしたに違いない。

1967年、38歳になっていたスペンサーだが、主力打者として30本塁打を放ち、投げてはエース・米田哲也が18勝を挙げる快投で他チームを圧倒。

阪急は2位の西鉄に9ゲーム差を付けてパ・リーグ初制覇を達成した。以降の阪急は第一次黄金時代を迎えるが、その原動力が来日時に「優勝させる」と公約したスペンサーであることは言うまでもない。

また、日本でも実践していたデータに基づく科学的な野球はその後のNPBに大きな影響を与え、1990年代以降に指揮官して辣腕を振るった野村克也に「日本野球を変えた」と言わせるほどだった。

一人の助っ人外国人選手としてだけではなく、NPBの底上げにも寄与したスペンサーは1972年に現役を引退。その後は故郷。カンザス州にあるNBC球団の監督を務め、2017年に88歳で死去している。

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