イングランド唯一のワールドクラスだった異端の才能【サイモン・クーパーの追悼文|中編】

2023年10月、ボビー・チャールトンが86年の生涯を終えた。彼はいまもイングランドフットボールの殿堂の頂点にいる。過去に存在した偉大なイングランド人選手の中でも、正真正銘ナンバー1の勝者だった。肩を並べる者はいない。

ヨーロッパを代表する著述家のサイモン・クーパーが追悼の意を込めて、そのレジェンドの偉業やエピソードを紐解いていく。

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母のシジーは回想する。ボビーとジャックの性格はまったく違っていたのだと。

「ひとりは天使、もうひとりは悪魔。そんな兄弟だったわ。ボビーはいつも大人しくていい子。ジャックはヤンチャ、私に何度引っ叩かれたことか」

ピッチの上でもそれは同じだった。ボビーは天使のようにプレーした。生まれながらの天才で、スピード豊かな両利きのドリブラー。放たれる強烈なシュートは秋の雷鳴のようで、10代で18クラブから誘いを受けた逸話を残す。そこから選んだのがマンチェスター・ユナイテッドだった。

故郷のアシントンで「ボビー・チャールトンの兄」として知られるジャックは、巨躯に物を言わせるタイプの荒々しいストッパーとなり、リーズ・ユナイテッドとイングランド代表で長らくプレーした。

ボビーは20歳の時からスターで、輝かしい未来が約束されていた。そんな彼の人生を変えたのが1958年2月の出来事だ。

ベオグラードで行なわれたチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)の帰路、ユナイテッドのチームを乗せた飛行機が燃料補給地のミュンヘン空港で事故を起こして炎上。23人の搭乗者が死亡した。チャールトンのチームメイトも8人が命を落とし、イングランドの未来と称された若手のダンカン・エドワーズも犠牲になった。

チャールトンは燃え盛る機体から40㍍も投げ出され、身体には機内の座席がくっついたままだったという。軽度の裂傷だけで済んだのは不幸中の幸いだったものの、精神的ショックは大きく、生涯にわたり喪失感を抱き続けることになる。もともと内向的な性格な彼の心にはサバイバーズ・ギルト(生存者の罪悪感)が刻み込まれ、憂鬱が常につきまとうようになったのだ。その後の人生を過ごす中で、チャールトンはチームメイトたちの亡霊を感じることが度々あったという。

1996年、ジャックはこう記している。

「あの事故以来、ボビーは大きく変わった。心から笑うことはなくなった。今日のこの日までそれは続いている」

ミュンヘンの悲劇から2か月、チャールトンはイングランド代表デビューを果たす。直後のスウェーデン・ワールドカップ(W杯)には控えとして臨み、62年のチリW杯には主力として出場。その翌年、自国開催となる66年大会を見据え、アルフ・ラムジーがイングランド代表監督に就任した。

ラムジーはチャールトンを異端の才能とみなしていた。真にワールドクラスと称せるイングランド人フットボーラーは、他には見当たらなかった。

「ワールドカップが始まる何年も前から私には確信があった。66年大会でエースの9番をつけるのはチャールトンだと」

ラムジーに与えられた最大の仕事は、チャールトンを進化させることだった。

当時の他の代表チームなら、抜きん出た才能を持つタレントを中心に据えたチーム作りを進めたはずだ。そのスターの気ままなポジショニングも、守備にほとんど参加しない姿勢もすべて受け入れて――。

だが、ラムジーは違った。彼はチャールトンに規律を植え付け、守備のタスクを与えた。互いの意見を戦わせることも少なくなかった。

「チャールトンがよりチームのためにチャンスを構築し、チームの勝利につなげるためにどうするべきか。われわれは何度も話し合った。だが、それがピッチの上で見られたのはせいぜい5分か、長くても10分程度だった。それを除けば、チャールトンはすべて忘れたかのように奔放だった」

ラムジーの期待にチャールトンがついに応えたのは1966年大会直前だった。

そしてチャールトンはポルトガルとの準決勝で2得点の活躍を見せた。おそらく彼にとってのキャリアの頂点だ。

続くウェンブリーでの決勝には、修道女からもらったという“奇跡のメダル”を握りしめたシジーも駆け付けた。ボビーの後方にはもちろん、ジャックの姿がある。しかし、ボビーはこの西ドイツ戦でほとんど消えていた。

【後編】に続く

文●サイモン・クーパー
翻訳●豊福 晋

※『ワールドサッカーダイジェスト』2023年12月21日号の記事を加筆・修正

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