【連載】箱根事後特集『萌芽(ほうが)』 第3回 3区 辻文哉

念願の東京箱根間往復大学駅伝(箱根)初出走を果たし、太田蒼生(青学大)や佐藤圭汰(駒大)ら実力揃いの3区で堂々たる走りを見せた辻文哉(政経4=東京・早実)。大きな期待を受けながら、故障に悩み続けた男が長い雌伏の時の先に見えた景色とは。本懐を遂げた裏側と将来の展望に迫った。

※この取材は1月13日にオンラインで行われたものです。

最初で最後の箱根を終えて

3区を走る辻

――箱根が終わってからの解散期間はどのように過ごしていましたか

6日に退寮して、実家に帰りました。毎週水曜と土曜は練習があるので、所沢に行っていますが、あとは実家でゆっくり過ごしています。

――箱根から10日ほど(取材当時)経ちましたが、周りからの反響はいかがでしたか

みんなLINEをくれるなどすごい喜んでくれて、その後は特になく、穏やかに過ごせています。

――箱根に関してお伺いします。元々は7区で出走予定だったとのことですが、箱根自体の出走が決まったのはいつですか

2週間くらい前には、ほぼ確実に走れるだろうなと思っていました。

――決まった時はどのような気持ちでしたか

やっと(箱根を)走れるんだという感じでした。そこからまだ2週間で体調を崩すことも、ケガをすることもありうることなので、そこで喜ぶというよりかは、まだ2週間あるので、気を引き締めてやっていこうと思っていました。

――7区はどのように走ろうと考えていましたか

前半下りで耐えつつ、8キロ以降アップダウンが続くので、そこから13キロ以降が勝負になるかなと思っていました。しっかり力を溜めながら。前半から行けたらと思っていました。

――3区に決まったのが12月25日だったと箱根当日仰られていましたが、3区に決まった時はどんな気持ちでしたか

3区か7区で、7区の方が可能性が高いという感じだったので、3区もしっかり視野には入れていました。ただ正直最初に、体調不良の連絡が来た瞬間は「本当か。」とは思いました。こういうプレッシャーを背負って大志(伊藤大志次期駅伝主将、スポ3=長野・佐久長聖)は3年間やってくれているのだなというのは感じました。走れなかった責任を感じるような走り はしてはいけないなと思ったので、もう腹をくくってやるしかないなと思いました。

――12月の事前対談から箱根当日の調子はいかがでしたか

問題なく練習は順調にできていたので、あとは自信を持って走るだけでした。

――箱根に出走するにあたって、他の選手や指導者の方からアドバイスはありましたか

花田さん(花田勝彦監督、平6人卒=滋賀・彦根東)からは、前半は落ち着いて入って、後半勝負で行こうとずっとお話しされていました。

――佐藤圭汰選手(駒大)や太田蒼生選手(青学大)といった有力選手と走ることになりましたが、当日のエントリー変更を聞いた時や、実際待機所で一緒になってなにか思うところはありましたか

元々予想していたメンバーではあったので、そこはそんなに特別思うことはありませんでした。(2区の)山口(智規、スポ2=福島・学法石川)が駒大とか青学大と一緒に来ないといいなとはちょっと考えていたので、そこはちょうどいい位置で持ってきてくれたかなと思います(笑)。

――改めて3区での走りを振り返っていかがですか

思いのほか追いつかれはしたのですが、前半は本当に予定通り落ち着いて入れていました。そこでかなりいいペースで走れているなと思ったので、そのまま行くだけでした。下りで少し足がきつかったのですが、10キロから15キロぐらいの間は割と余裕を持って集団で走れました。そこから15キロ以降が勝負だなと思っていたのですが、時折、東洋大の選手や日大の選手と仕掛け合いみたいな感じになって、意外と余裕がなくなってしまいました。(仕掛け合いに)勝って(4区の石塚陽土に襷を)つなぎたかったのですが、負けて、離されて渡すことになっちゃったので、そこだけ悔しいところではあります。

――以前から辻選手が好きだと仰っていた集団走の展開になりましたが、その点はいかがでしたか

(周りに)単独で前に前にという展開を得意とする選手が多かったので、とてもラッキーだったなと思いますし、そこはもう本当に間瀬田(純平、スポ2=佐賀・鳥栖工)と山口に感謝です。

――戸塚中継所では駒大、青学大、創価大に続く4位でのタスキリレーとなりましたが、順位に対してプレッシャーはありましたか

山口なら5番以内までは上げてくるかなとは思っていました。本当に想定通りの位置で持ってきてくれたので、 ここはイメージ通りで、特に焦りもなくという感じでした。

――戸塚中継所でタスキを受け取った時はサングラスは外されていましたが、平塚中継所ではサングラスは着けられたままでした。そこに関して意図や狙いはありましたか

初めはしっかり顔が見える状態で山口を迎えたいと思っていたので、頭につけていました。最後も余裕があったら外すつもりだったのですが、もうそんなこと頭になくて、気づいたら(サングラスを)かけたまま(タスキを)つないでしまいました。

――下りで足がきつかったという話もありましたが、3区のコースを振り返っていかがでしたか

5キロから10キロでかなり下っていて、上位の選手はそこでかなりスピードに乗ってたのですが、(僕自身は)あんまり下りが得意じゃないのもあって、前半落ち着いて、後半勝負していくようなコースだと思っていました。今年に関してはかなり風が弱かったので、タイムが出るコンディションだなと感じながら走っていたのですが、想像以上に前2人(太田、佐藤)がタイムを出してしまったという感じです(笑)。

――給水は誰にお願いしましたか

5キロは日野(斗馬、商3=愛媛・松山東)、15キロは草野(洸正、商3=埼玉・浦和)がやってくれました。

――沿道からの応援は聞こえましたか

そうですね。早稲田の応援が多いなとは思っていたのですが、僕の名前を呼んで応援してくれる方もいて、すごくありがたいなと思いながら走っていました。

――ご家族はどこで応援されていましたか

8キロくらいのところにいたと思います。どこにいるか事前に聞けなかったのですが、走りながら8キロぐらいの時点で、 なんか母親っぽい声したなって思いながら通り過ぎました。後から確認したらそこらへんにいたので、多分あれだったんだろうなという感じです。

――平塚中継所では早実の後輩である石塚選手とのタスキリレーでしたが、いかがでしたか

北爪先生(北爪貴志氏、平23スポ卒=現早実高監督)が3年生の時(2010年)以来の(早実)リレーだと思います。そこは石塚と高校時代1回も直接タスキをつないでなかったのもあったので、やっとつなげてよかったです。もうちょっと楽な、いい位置で走らせてあげたかったなというのはあるのですが、最後に一緒に走れてよかったなと思います。

――事前対談の際は「箱根を思う存分楽しみたい」と仰っていましたが、いかがでしたか

もう本当に21.4キロずっと応援してもらえて。ずっと競り合いながらも勝負を楽しむことができましたし、 もう来年以降に未練を残すことなく次に進めるかなと思ってます。

――復路の方々の走りについてはどのようにご覧になっていましたか

特に菅野(雄太、教3=埼玉・西武学園文理)とか伊福(陽太、政経3=京都・洛南)とかは僕と同等以上に(練習が)できていたので、問題なくやれるだろうなとは思っていました。シード権とかよりは上位を狙って、自分自身の力を出すことに集中して頑張ってほしいなという風に 見ていました。

――チームの順位についてはどのように評価されますか

自分たちができることは、本当にやった駅伝なのかなと思います。ただ6位が目の前でしたし、チーム目標は5位以内が最低ラインでした。そこはどの駅伝でも達成できなかったということもあって、僕らの4年間が7位で終わるというのは、正直悔しいところではありました。

――レースの中で、ご自身でどのような役割を果たせたと感じていますか

僕のところでシード権争いに巻き込まれるのか、上位で戦うことになるのかという、流れを左右するところになるのかなと思っていました。シード権争いに巻き込まれないでできたかなと思いますが、上位とはかなり離されてしまいました。僕がもっと走れたら、3位争いでレースを進めることができたかもしれないので、そういう選手としての悔しさは、これから力をつけて晴らしていけたらいいかなと思います。

――早実高時代の恩師である北爪貴志氏とはなにかお話はされましたか

「茅ヶ崎あたりで応援しているよ」という風に前日に連絡を頂きました。当日走っている時も気がつきましたし、報告会で会った時にすごい喜んでくれていたので、すごく良かったなと思います。

自分の可能性を信じた駆け抜けた4年間

7月8日の早大競技会を組トップでゴールした辻

――大学生活最後のレースを終えられたというところで、4年間を振り返った質問をさせていただければと思います。4年間を全体的に振り返られて、早大での4年間はいかがでしたか

1年の時は全日本(全日本大学駅伝対校選手権)までは走れていたのですが、そこから結構停滞してしまったなと正直思います。ただ箱根の走りを見て、同期が「感動した」と言ってくれたのを聞いて、「こいつが喜んでくれるなら良かったな」と思いました。

――全日本の1区で同期では一番乗りで駅伝デビューとなりました。改めて当時を振り返っていかがですか

夏合宿とかからかなり順調に練習できていたので、1年でデビュー戦だからというよりかは、とにかく練習できた自信を持って臨みました。

――その後はケガが続きましたが、その原因はどういったところにあると感じていますか

1年の全日本とかで、自分の目線が上がっていった時に身体がついてこれていませんでした。全日本直後に故障してから、自分が目指すところとちゃんと向き合えてなかったかなというところで、2年目は苦労しました。2年の終わりに長く故障してからは筋力の低下などからなかなか戻れずに、3年目まで伸びてしまいました。

――なかなか満足に走れない時期が続く中で、競技を続けられるモチベーションはどういうものでしたか。

正直「もうこれ以上速くなれないのかな」と思うこともなくはなかったのです。しかし、諦めようかなと思った時に、どうしても「まだ速くなれる」という気持ちはずっと残っていたので、それがあるうちはやめられないなと思っていました。ケガの間もずっと自分を信じてやってきましたし、これからも続けていくという決断をしたのは、そういう気持ちからかなと思います。

――ケガが続く中でも、タイムを伸ばすことをできたと思いますが、その要因は何ですか

正直トラックのタイムに関して1年の時は、大学の練習量に適応しただけで出たタイムです。2年で(10000メートルで)28分台を出しましたが、1年の時点で、28分30秒ぐらいでは走れるかなとは思っていました。そこは満足できるタイムではないです。これからもっとタイムを出して、あの時の感覚が正しかったんだな、と思いたいです。

――早大に入学した時に思い描いた未来と現在を比較していかがですか

「ワセダのエースになる」というところは、1つ目標というか、描いていたところではありました。1年生の時から順調に上がっていく成長曲線でありたかったのですが、思うようにいかなかったところではあります。最後に少しだけ取り返せたというか、右肩下がりで終わらずに済んだかなというところは、なんとか自分が諦めなかった4年間を体現できたのかなとは思います。

――辻選手の4年間でのベストレースはありますか

1年生の9月の5000メートルで、自己ベストを出した時です。夏に入る前に、 秋には13分50秒を切ろうというところを目標にして練習していました。自分で長期的に目標設定して、それをクリアするということはなかなか高校時代からできていなかったことでした。そういう意味で、しっかり13分49秒というタイムでクリアできたというのは印象に残っています。

――良し悪し関係なく、4年間で最も印象的だった出来事はありますか

2年生の六大学(東京六大学対校)です。僕が2位になっていれば、チームが優勝していたので。あと関東インカレ(関東学生対校選手権)の10000メートルで 同学年の石原くん(東海大、石原翔太郎)に周回遅れになった場面です。力の差を感じて悔しかったので、印象に残っています。

――4年間ともに過ごした同期の方々はどのような存在ですか

ずっと一緒にくっついて過ごしていたわけではなくて、お互い、認め合って干渉せずというか、程よい距離感でやっていました。正直自分たちの代以外だったら、4年間過ごすのはしんどかっただろうなと思うぐらい、本当にこの代でよかったなって思いますし、すごい好きな同期です。

――佐藤一世選手(青学大)や松永伶選手(法大)といった中学時代に対戦していた選手と再び同じ舞台に立つことができましたが、そこに関してはどのように感じていますか

佐藤一世だったら4区で区間賞を取っているわけですし、松永くんも2区で活躍していました。そういうところの差は結局埋まらないままだったので、それはここからなのかなと思っています。

勝てるマラソンランナーを目指して

箱根前合同取材で決意を述べる辻

――今後は実業団で競技を続けられるとのことでしたが、それに関して迷いはありませんでしたか

2年生の時は進路をどうしようかなと悩んではいたのですが「まだ速くなれる」という気持ちはあったのと、MGC(マラソングランドチャンピオンシップ)を高校生の時に現地で見て、こういうレースで勝ちたい、マラソンで勝てる選手になるというところが目標になりました。それは在学中にはなし得られないなと思ったので、 卒業後も続けようと、3年生になったぐらいには決めてました。

――安川電機を選ばれた理由はありますか

中本監督(中本健太郎監督)もそうですし、古賀さん(古賀淳紫) などマラソンで結果残されてる選手がすごい多いチームなので、そこはマラソンで結果を残したという自分の気持ちとフィットするところでした。 先輩の鈴木創士さん(令5スポ卒)も、のびのびやられてるみたいなので、創士さんがのびのびやれれば僕はもう十分のびのびやれるだろうと思いました。環境面も見学に行った時もすごい先輩方が優しく接してくださったので、ここなら強くなれそうだなと思えたというのが一番です。

――初めて関東から出ることになりますが、不安はないですか

行ったらいろいろ思うこととかもあるんだろうなとは思います。しかし、大学4年間で停滞して、何かを変えなきゃいけないのかなと思っていたところで、 安川からお話を頂いて、いい機会でした。不安よりは新しい場所でやれるということに対する期待の方が大きいです。

――マラソンで勝てる選手になりたいというお話がありましたが、具体的にはどのような選手になりたいですか

どのレースでも強さを示せる選手です。太田智樹さん(令2スポ卒=現トヨタ自動車)がやはり今1番強い選手だなと僕は思います。爆発力を、常に安定して出しているパフォーマンスの発揮のされ方をしているので、そういう選手になりたいです。

――タイムの目標はありますか

まずはトラックで来シーズン、5000メートルで自己ベストを出して、1万メートル27分台を出してというところを達成してから、マラソンに移行したいなと思っています。

――MGCを現地観戦したというお話もありましたが、ゆくゆくは五輪に出たいという思いもありますか

そうですね。オリンピックもそうですし、マラソンはオリンピックだけではなく、ワールドマラソンメジャーズと呼ばれるようなレースがあったり、世界陸上(世界陸上競技選手権大会)もあったりとか、ビッグレースがたくさんあるというところが魅力なのかなという風には思っています。オリンピックもそうですし、そういったビッグレースで活躍できる選手になりたいです。

――早大の話に戻りますが、新チームで期待する選手はいますか

和田(悠都、先理3=東京・早実)は高校の時から一緒に頑張っているので、4年間やり切るだけではなく、最後に箱根で活躍する姿を見たいなと思っています。他にもまだ悔しい思いをしている選手は多いと思うので、そういった選手が活躍する姿を見たいです。

――早実高時代から合わせて7年間ワセダを背負い続けましたが、ワセダを離れる寂しさはありますか

正直あまりないです(笑)。

――次のレース予定はありますか

3月までは特に予定しているレースはないので、4月以降、九州でトラックレースに出るという形になるかなと思います。

――新チームに向けてメッセージをお願いします

山口や石塚、大志といった、すごく強い選手がそろっているチームですが、そういう選手と自分は違うと思わないでほしいです。いかに彼らに勝ちたいと思える選手がいるかというのが、 来シーズンの鍵になると思います。そういう姿勢がチームの中で出てくれば、出雲(出雲全日本大学選抜駅伝)も全日本も箱根も勝てるチームになると思います。

――ありがとうございました!

(取材・編集 星野有哉)

◆辻文哉(つじ・ふみや)

2002(平14)年1月4日生まれ。167センチ。東京・早実高出身。政治経済学部4年。第100回箱根3区1時間2分39秒(区間7位)。深夜ラジオを愛聴するなど、お笑いに造詣が深い辻選手。イチオシのネクストブレイクの漫才師を伺ったところ、ママタルトを挙げてくださりました!

© 早稲田スポーツ新聞会