<レスリング>【評伝】“いじめられっ子”がオリンピック王者へ! 強化委員長としてソウル大会の勝利も引き寄せた花原勉さん

日本グレコローマンの栄光の基礎を作り、日体大を最強チームに押し上げた1964年東京オリンピック金メダリストの花原勉さんが、闘病の末、84歳で亡くなった。

父の仕事の関係で1940年に朝鮮半島で生まれ、終戦で帰国。のちの花原さんの気の強さからは信じられないことだが、偏見が根強くあった朝鮮生まれで(国籍は日本)、体が小さく、小学生のときに肺の病気で1年留年したこともあって、「落第坊主」といじめられた少年時代だったと言う。

その悔しさから姿三四郎へ憧れて柔道を始めたが、当時の柔道は階級制ではなく、自身の体格では壁を感じた。そんなとき、1956年メルボルン・オリンピックを特集した映画でレスリング選手(笹原正三、池田三男)の活躍を知り、階級制のレスリングへの転向を決意。日体大に補欠合格し、親が親戚中から借金をして進ませてくれた。

▲子供の頃は“いじめられっ子”だったという花原さん。その悔しさが原点となって、オリンピック王者に昇り詰めた=2012年1月

柔道からの転向選手では、初めはレスリング選手のスピードについていけなかったそうだが、関節をコントロールする技術を覚えて勝てるようになった。当時の日体大は弱小チーム。その中でも実力をつけ、1960年にグレコローマン52kg級(当時の呼称は「フライ級」)で日体大初の全日本王者に輝き、翌1961年は世界選手権に出場して6位。「負けたくない、という気持ちが支えてくれました」と振り返った。

いい気になっていた東京オリンピック前、八田一朗会長の指導に感謝

1963年は世界選手権の最終選考会で優勝しながら、外国選手に対する実績などで日本代表に選ばれない屈辱を味わった。当時は、今と違って最終選考会で勝っても過去の実績などを理由に日本代表に選ばれるとは限らない選考方式。東京オリンピックを控えた1964年の最終選考会でも優勝したが、代表決定はその後の合宿でのリーグ戦で決まることになった。

代表に指名されたのは東京オリンピックの約1ヶ月前。これは、日本協会の八田一朗会長の操縦法だった。花原さんは「いい気になっていた時期でもありました。油断を生じさせることなく、オリンピック直前まで練習に打ち込ませてくれました」と感謝の言葉を口にしていた。

選手活動を引退したあとは、指導者として日体大の東日本学生リーグ戦18連覇(1979~96年)などの基礎をつくり、1986年から日本協会の強化委員長として2年後のソウル・オリンピックへ向けて、指揮をとった。メンタル・トレーニングや最新のスポーツ医科学の導入を進めて“根性主義”からの脱却を試みた。

▲1988年ソウル・オリンピックへ向けての菅平合宿で、日本テレビ・松永二三男アナウンサーからのインタビューを受ける花原強化委員長

ソウル・オリンピック前には深夜練習を復活、その目的は?

一方、全日本合宿では夜中に突然たたき起こして練習させる“八田イズム”(関連記事も復活させた。これには裏がある。報道にはこっそり教えて取材に来させ、夜中にも練習していることをマスコミに報じてもらうことで世間の関心を引きつける手段でもあった。「マスコミを味方につけろ」も八田イズムの真骨頂。恩師の教えを忠実に守っていた。

ソウル・オリンピック前、理事会から突然、代表選考方法の変更についての提案があった。上意下達(上の意見や命令を下へと伝えること)が根強く残っていた時代だったが、「それでは選手に示しがつかない」と徹底抗戦。変更を阻止して強化委員長としての信念を貫いた(関連記事)。こうした信念が、同オリンピックでの「金2・銀2」(全競技の金メダルは4個)につながったことは言うまでもあるまい。

▲1987年世界選手権で銅メダルを取り、大学の部長でもある花原強化委員長(左)に報告する栄和人・現至学館大監督。中央は福田富昭・現名誉会長

2012年1月、日本協会80周年史の企画で東京オリンピックの5人の金メダリストが集合して座談会を開き、思い出を話し合った。

花原さんは「メルボルン・オリンピックの映画でレスリングを見たのが、(レスリングの道へ入る)きっかけでした。いじめられて悔しい思いをしたことと、あの映画の感動があったから、いい人生がおくれました」と話していた。長男・大介さんが1992年バルセロナ・オリンピックに出場したことを含め、悔いのない人生を歩まれたことと思う。(編集長=樋口郁夫)

▲著書「金メダル・レストラン」の出版記念パーティーで、レスリングを始めるきっかけとなった笹原正三会長(当時)から祝辞を受ける花原さん=1995年5月

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