【連載】箱根事後特集『萌芽(ほうが)』 第4回 4区 石塚陽士

今年の東京箱根間往復大学駅伝(箱根)で2年ぶりとなる4区を任された石塚陽士(教3=東京・早実)。だが、全日本大学駅伝対校選手権(全日本)の頃から感じていた足の不調もあり、満足のいく走りからは程遠い結果に終わった。「苦しかった」という言葉を何度も繰り返した21・3キロを走り切って感じたこと、そして大学ラストイヤーに向けての思いも伺った。

※この取材は1月13日にオンラインで行われたものです。

全日本後から続いていた不調

上尾シティハーフマラソンを走る石塚、この時はもうすでに不調だったという

――箱根後の解散期間はどのように過ごされていましたか

今年は都道府県駅伝(全国都道府県対抗男子駅伝)も東京代表として選ばれているので完全には休めずに、次の日からジョグをちょこちょこして、1月6日に中高生が富津で合宿をしているのでそこに顔を出しに行ったり、あとは長野県で伊藤大志次期駅伝主将(スポ3=長野・佐久長聖)らが練習しているのですが、彼に会いに行って一緒にジョグをしたりということをしていました。

――あまり休まずに練習されていたという感じでしょうか

練習量自体は落ちてはいますが、ぼちぼち練習はしていたという感じです。

――箱根前の期間についてお聞きします。箱根のレース後の取材では、足がうまく蹴れないということもおっしゃっていましたが、具体的にはどのような症状だったのでしょうか

本当に全日本直後ぐらいから左足なのですが、うまく蹴れなくてただ足を置いているだけという状態がずっと続いていました。上尾ハーフ(上尾シティハーフマラソン)とかもそういった状態で後半の10キロとかを走っていて、チームのトレーナーさんとかいろいろな人のアドバイスや意見を聞きながらなるべく治そう治そうとはしていました。少しは良くなったのですが、完全には回復せずに箱根当日を迎えました。

――ケガとはまた別の感じでしょうか

痛み自体はないので普通のケガとは少し違うのですが、一種のケガと言わざるを得ないかなと思います。

――箱根前の練習でも足の状態の影響はありましたか

そうですね、やはりポイント練習も全日本後からの2カ月は思った通りにはできずに過ごしていて、すごく自分の中ではもどかしかったですし、本当にこれで走れるんだろうかという不安もかなりありました。ですが最終的にはやっぱり押し切るしかないので、無理矢理気持ちを上げて乗り切ったという感じです。

――それでは改めて4区の出走が決まった時期と経緯を教えてください

正式に決まったのが(区間)エントリー日の12月29日ぐらいでした。大志北村やさん(北村光、スポ4=群馬・樹徳)がインフルエンザに罹って、チームとして思うようなオーダーが組めないとなった時に、どうしても僕を使わざるを得ないというか、「不調でも往路を走るのは石塚しかいない」という話をされました。辻さん(辻文哉、政経4=東京・早実)はすごく調子が良かったので辻さんを3区に置いて、僕を4区に置いたというかたちでした。

――箱根当日のコンディションはいかがでしたか

足の状態は良くはなかったのですが、そこ以外の体調面などは特に問題なく、雨もレース中降っていましたが、そこに関しては特に気にならなかったので、悪くはなかったのかなと思います。

――1ー3区の選手の走りはどのようにご覧になっていましたか

2区の山口(智規、スポ2=福島・学法石川)が特に印象的でした。自分が去年走っているからこそ彼のすごさが分かるので、6分30秒台でまとめてきたのが本当にすごいなと思いました。彼の走りを受けて、不調の中でももっと頑張らないといけないなと思いました。

――タスキは何位ぐらいでもらうことを想定していましたか

僕の中ではもう少し後ろなんじゃないかなと思っていました。8番から10番ちょっとぐらいかなと思っていたのですが、本当に1区から3区までみんなが頑張ってくれていい位置で来てくれたのはうれしかったです。

今年の箱根路は「ずっと苦しかった」

4区を走る石塚

――辻選手との早実タスキリレーはいかがでしたか

実は早実時代から1回もタスキをつないだことがなくて。高校時代は辻さんが1区で僕が3区というのが基本固定されていたのでつないだことがなくて、大学に入ってからは辻さんがなかなか駅伝に出走できないということが続いていました。本当に最初で最後じゃないですが、高校時代から7年間、すごく長い期間お世話になった先輩なので感慨深いというか、すごくうれしかったです。

――タスキをもらう時にはどのような言葉を掛けられましたか

覚えていないのですが(笑)、いい感じの言葉は掛けてもらいました。大きな背中を最後に見せてもらったなと思います。

――箱根後に早実の先生からは何か連絡はありましたか

顧問の先生は北爪先生というのですが、北爪先生はすごく喜んでいるというか、先生自体もあまり予想していなかったリレーではあったので、本当にうれしそうな感じで「お疲れ様」という連絡はもらいました。

――4区のレースプランは1年時の経験も含めてどのように考えていましたか

4区は後半2、3キロの上りでかなり区間順位が変わってくる区間というのと、僕の足の状態が不調というところも鑑みると、最初はどうしても突っ込みたくないというか、ある程度抑えたところで入りたいなと思っていました。前半はよほど集団で来ない限りは自分のペースで走って、後半15キロ地点の酒匂橋を越えたあたりから徐々にビルドアップしていくというレースプランで走っていました。

――走る上で特に意識していた選手はいましたか

4区ぐらいまでになってくるとかなり1ー3区の流れも影響してきて、事前にここにつきたいというのも難しくなってくるので特にそういったことは考えずに走っていました。

――改めてレース全体はどのように振り返りますか

正直ずっと苦しくて、5キロ過ぎぐらいから力が入りづらくなってきて、10キロ過ぎからはもうおかしいなという感覚が自分の中でありました。特にラスト3キロは本来上げていかないといけないところで、本当にもう動かないというか蹴れないというのが顕著に出てきてしまって、本当に走っていて苦しかったです。1年目は初めての箱根というのもあって楽しかった印象はあったのですが、今年はずっと苦しんでいたという感じです。

――給水はどなたでしたか

10キロ地点は2年生の藤本進次郎(教2=大阪・清風)で、15キロは早実の後輩の小平(敦之、政経1=東京・早実)がやってくれました。

――どのような言葉を掛けてもらいましたか

基本的に、前とか後ろとかの秒差を伝えてもらいました。早稲田の給水は監督に事前に「何か話すことはありますか」というLINEを流してから給水するのですが、小平は花田さん(花田勝彦駅伝監督、平6人卒=滋賀・彦根東)から「早実の後輩らしい言葉を掛けて欲しい」というのを言われたらしくて。早実の後輩らしい言葉が掛かった気はしないのですが(笑)、小平のオリジナリティのある言葉、早実魂と言っていたかはあまり聞き取れていなくて覚えていないのですが、それらしい言葉は掛けてくれた記憶はあります。

――花田駅伝監督からの声掛けで印象に残っている言葉はありますか

ラスト3キロぐらいで花田さんが監督車から急に校歌を歌い出して、「早稲田〜早稲田〜」って言い出して、それはすごく印象に残ったというか、今までになかった声かけだったので、記憶に残っています(笑)。

――往路の結果については

先ほどの2区の山口もそうですが、本当に想定以上の走りがみんなできていて、僕のところはブレーキに近いかたちになってしまったのですが、それ以外の4人は本当にうまく走ってくれて救われたなと思います。

――復路の各選手の走りはどのようにご覧になっていましたか

6区、7区の選手に関しては、2人のインフルの選手の代わりではないですが、事前の想定では走る可能性が低いかなと思われていた4年生だったので、そこは最後の4年生の意地を見せてくれたのはすごくうれしかったです。8、9、10区に関しては練習通りの力を3選手とも出してくれて、特に伊福(陽太、政経3=京都・洛南)は全日本の脱水があってから2カ月であそこまで戻してきてくれたのでそこは同期としてすごく刺激になりました。10区の菅野(雄太、教3=埼玉・西武学園文理)に関しても去年から確実に成長していました。彼は一般入試を経て入ってきている選手なので、そこはすごく刺激になりました。

――総合7位という結果についてはどのように受け止めていますか

直前にいろいろなトラブルがあった中では耐えた順位なのかなとは思っています。ですが本来往路優勝を狙っていく、(総合)3位以内を目指している中ではやはり物足りない結果ではあるので、来年以降も直前のトラブルをいかに減らすかというところに焦点を当てていかないといけないなとは感じました。

――レース全体を通して上位校との差はどのような部分で感じましたか

全体的な層の厚さは昨年、一昨年と比べると厚くはなってきましたが、やはり他校と比べると薄いですし、あとはやっぱりエース力というか爆発力のある選手がうちには足りていないのかなというところが、前々から分かってはいたのですがそれがやっぱり露呈していると思うので、そこは今後の課題かなと思います。

大学ラストシーズンに向けて

関東学生対校選手権で2位に輝くなど、前半シーズンは絶好調だった

――箱根も含め、改めて今シーズン振り返るといかがですか

トラックシーズン、春夏に関しては本当に自分が思い描いたようないいシーズンだったのですが、秋からは本当に何もうまくいかなかったシーズンで、正直苦しかったところもありました。ですが、自分がタイムも持っているし頑張らないといけないなというのもあって、苦しかったのですが、その中で山口が上尾でタイムを出してくれたりだとか、チームメートに救われたりする場面がありました。本当に、仲間に救われたシーズンでした。

――今お話にもあった山口選手は三本柱の一人でもありましたが、箱根を経て一つ突き抜けた存在になられたと思います。それについてはどのように感じていますか

海外遠征のきっかけをうまくつかめたのが、(海外遠征に)行った3人の中で山口なのかなと思っています。本当にそこの突き抜けについていけないというのがすごく悔しいのですが、今の僕の足の状態的には泳がせるしかないので、早く治してその突き抜けに早く追いつきたいなというのはあります。必ず追いつくので、山口には苦しい1年になるとは思うのですが、頑張ってもらいたいです。

――箱根後に新チームの目標は何か話されましたか

今話しているところで、例年だと4年生がある程度一方的に決めて、例えば去年の菖蒲さん(菖蒲敦司駅伝主将、スポ4=山口・西京)の代だったら「箱根駅伝で3番以内を狙います」といった感じで提示されるスタイルだったのですが、今年はある程度全員で考えたいなというのをキャプテンの大志と同期で話しています。新4年生で目標を1週間以内に提示する予定なのですが、それを受けて下級生にその目標に対してどう思うかというのを話してもらって、全員で決めていくスタイルにしようかなと考えているので、正式に決まるのは1月末から2月の頭になるのかなと思います。

――最上級生として自身に求められている役割については

一つはやはり早く走りで引っ張っていきたいというのもありますし、今もそうですが、もしケガなどで走りでは引っ張れないとなった時には、各学年ごとのつながりをつなぐ役割を大事にしたいなと思っています。同じ学年間の横のまとまりはあるのですが、縦のつながりは少し薄いところもあるので、後輩に声を掛けていくことなどを大事にして、学年間でうまくコミュニケーションを取れるようにしていきたいです。

――最後に今年1年間のトラック、駅伝での目標をお願いします

今年は5月に日本選手権があり、大きな大会が続くので、まずは決勝で戦っていくのを目標にしています。駅伝シーズンに関しては、今年はある程度エース区間を走らせてもらったのですが、どれもうまくいかなかったのでそのリベンジができるように準備をしていきたいと考えています。

――ありがとうございました!

(取材・編集 加藤志保)

◆石塚陽士(いしづか・はると)

2002(平14)年4月22日生まれ。170センチ。東京・早実高出身。教育学部3年。第100回箱根4区1時間2分50秒(区間13位)。解散期間中には同期の伊藤大志選手らと旅行で箱根を訪れたという石塚選手。最近は箱根が観光しに行く場所だという認識がなかったため、「意外と遊ぶ場所があるんだな」と感じたそう。今年走れなかった伊藤大志選手に5区のゴールのところを走らせてゴールテープを切るふりをさせたり、足湯に浸かったり、いつもとは違う感覚で箱根を楽しめたそうです!

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