犀星ゆかりの寺損壊、保全困難金石の海月寺、建て替え検討

室生犀星が下宿した部屋の被害を確認する高良住職=金沢市金石北1丁目

 金沢三文豪の一人、室生犀星が若き日に下宿し、小説も執筆した曹洞宗(そうとうしゅう)海月寺(かいげつじ)(金石北1丁目)が能登半島地震で損壊し、復旧のめどが立っていない。約300年の歴史がある本堂や犀星が寝泊まりした庫裏(くり)の保全は困難で、解体を余儀なくされる見通し。境内にある墓の多くは地面から傾き、安全面からも復旧が急がれる中、同寺や地元住民は復興委員会を設立し、再建に向け一歩を踏み出す。

 高良良高(たからりょうこう)6代目住職によると、寺周辺は地盤が弱く、元日の地震で建物は沈下して傾き、地面や建物の継ぎ目がずれ、壁のあちこちにひびが入った。水道管は破裂し、高良住職は豪商・銭屋五兵衛の木像や寺に伝わる掛け軸を手に長坂町の大乘寺に避難している。

  ●銭五にゆかり

 海月寺は銭屋五兵衛の屋敷で奉公したお鉄が出家し、釈迦堂に草庵を結んだことに始まる。河北潟埋め立て事件で処刑された銭五の三男要蔵の墓があり、銭五の木像が伝わる。

 約100年前に建てられた庫裏には、金沢地方裁判所金石出張所に勤めた犀星が10カ月ほど下宿した部屋がそのまま残されている。犀星にとって裁判所時代は後の文学形成に大きな影響を与えた「出発点」とされる。境内には初代庵主(あんじゅ)の死後に詠んだとされる「寒菊を束ねる人もない冬の日」の句碑がある。

 これまで随時、見学を受け入れていた犀星の下宿部屋も地震で壁にひびが入り、揺れで床が持ち上がった。境内には地元住民ら約110軒の墓を預かっているが、安全に墓参ができない状態になっている。要蔵の墓や句碑は無事だった。

 地震後の調査で、地盤が弱く、礎石に柱を立てた古い建物を基礎から直すと、膨大な資金が必要だと分かった。もとは尼寺で檀家(だんか)が少なく、高良住職は「葛藤はあるが、現実的にどうすることもできない」と苦しい胸の内を明かす。

 近く地元住民を交えた復興委員会を設け、寺の建て替えや墓地の修復について話し合う。高良住職は「犀星が使った部屋の一部でも保存し、再生したい思いもある。復興に向け前へ進みたい」と話した。

© 株式会社北國新聞社