【霞む最終処分】(19)第3部「決断の舞台裏」 福島県外処分は「当然だ」 30年以内搬出法律に

環境相・細野から工程表を受け取る知事の佐藤(左)。30年以内の県外最終処分について説明を受けた=2011年10月29日

 2011(平成23)年8月27日、福島県庁を訪れた首相・菅直人から東京電力福島第1原発事故に伴う中間貯蔵施設の県内設置を要請された知事・佐藤雄平は「困惑している」と不快感を示したが、明確な拒絶はしなかった。

 県内の一部市町村で除染作業が始まったものの、発生した大量の除染土壌の搬出先が決まっていないという事情があったからだ。空間放射線量を下げるために剥ぎ取った土は、小中学校の校庭などにも保管されていた。佐藤は不安を抱えながら通学する子どもたちの姿を思うと、胸が引き裂かれそうになった。「校庭などから持ち出し、どこかに集約しなければ、復興は進まない」との苦悩があった。

    ◇    ◇

 中間貯蔵の「定義」について政府から公に知らされたのは、それから2カ月後の10月29日だった。佐藤は環境相兼原発事故担当相の細野豪志から施設整備に関する工程表を手渡され、「除染廃棄物は中間貯蔵から30年以内に県外で最終処分する」と説明を受けた。

 口先だけの約束にさせてはならない―。佐藤には福島県が電力供給を通して日本の経済成長を支えてきたとの自負があった。只見川の大規模水力発電や、福島第1原発、福島第2原発で作られた電力は東京、埼玉、千葉、神奈川の1都3県に送られ、消費電力の約3分の1を担った。「国の発展を電力面で支えてきた福島が原発事故で汚された。除染廃棄物は国民の理解を得た上で、県外で最終処分するのが当然だ」との信念を抱いていた。

 佐藤は福島第1原発が立地する大熊、双葉両町をはじめ双葉郡の首長らと協議を重ね、2014年8月に苦渋の決断として「県外最終処分」を条件に中間貯蔵施設の建設を容認した。

 一方で、政府には「30年以内」との期限の法制化を要求した。人目を避けて知事公邸を訪ねてくる細野と、施設整備や法律での明文化に向けて意見を交わした。原発事故で未曽有の被害を受けた福島県のトップとして、復興への道筋を描くための正念場だった。2012年12月の政権交代後に環境相を務めた石原伸晃らとも交渉を重ねた末、2014年11月に中間貯蔵・環境安全事業株式会社法に記され、法的な担保を得た。

 佐藤は「中間貯蔵施設の受け入れと法制化は知事を務めた8年間で最も難しい判断だったが、自らの選択に間違いはなかったはずだ」と言い切る。

    ◇    ◇

 中間貯蔵施設への除染廃棄物の搬入は2015年3月に始まった。最終処分の期限まで現時点で21年余りだが、処分場をどこに設けるかは決まっていない。佐藤は「約束が果たされるまでの流れが見えない」と危機感を募らせる。

 最終処分量を減らすための再生利用の先行きも不透明だ。実現に向け、環境省が関東地方で計画している実証事業は手詰まり状態にある。

 佐藤は「国民への情報発信が全く足りていない」と、これまでの政府の対応に首をひねる。科学的に「安全」であっても、社会的な「安心」が醸成されない限り人々の懸念を拭うことはできないと訴え、「安全と安心は別物だ。国は法律の重みを意識し、責任を持って国民の理解を得なければならない」と行く末を注視する。(肩書は当時、敬称略)

© 株式会社福島民報社