<レスリング>【追悼】日本初の親子オリンピアン、「途中で逃げ出すことを許さなかった」(花原大介さん)

日本グレコローマンの基礎をつくった花原勉さんは、日本で初めて子供(長男・大介さん)をオリンピアンに育てた父親でもある。

1992年バルセロナ・オリンピックに父親と同じグレコローマンで出場した大介さんによると、小さな頃からほぼ毎日、父子がキャッチボールをするような感じで畳の上で遊び感覚の取っ組み合いをしていたが、本格的にレスリングをやるようになっても、レスリングの技術指導を受けた記憶は「ほとんどない」と言う。ただ、日体大の道場にはよく連れて行ってくれたそうで、学生選手とスパーリングする姿はよく覚えている。

その姿を見ていたことが、大介さんの心の礎(いしずえ)となっている。40代になっても学生選手とスパーリングなどをしており、「年をとっても体を張って指導することが学生選手の奮起につながり、その積み重ねが、日体大の強さにつながったのだと思います」と振り返る。

▲1964年東京オリンピック金メダリスト。左から花原勉、市口政光、渡辺長武(故人)、吉田義勝、小幡洋次郎(旧姓上武)の各氏=2012年1月

茨城・霞ヶ浦高校でレスリングを続けた大介さんが、けがのため思うような結果を出せず、自宅に逃げ帰ってきたときは、今では親子といえども認められないほどの鉄拳制裁があった。大介さんは「途中で逃げ出すことを許さなかったんだと思います。一度逃げたら、何度でも逃げてしまう、という教えでした。勝負は、最後は気持ちです。父は、それを教えてくれました。感謝しています」と振り返る。

大介さんの長男・大翔選手は、東京・六機KID’Sでレスリングに取り組み、2018年全国少年少女選手権優勝、昨年のU15アジア選手権3位などの実績をもって昨年春、佐賀・鳥栖工業高校へ進学。今月初めの全九州高校新人戦の個人戦60kg級で優勝し、3月の全国高校選抜大会出場を決めた。

祖父を尊敬しており、目標でもあるそうだ。4日に優勝したあと、祖父が危篤状態と知らされ、最終の飛行機で帰京。生きている祖父に会って、「将来の目標を伝えた」と大介さんに話してくれたとのこと。

死去が数日早ければ大会出場を優先していただろうし、1日遅かったら関東地方の大雪で飛行機が飛ばなかった。5日に逝ったのは、孫の九州大会優勝の朗報を天国への土産とし、会いに来てもらうことで、祖父・父に続く三代連続のオリンピック出場の願いを伝えたかったからにほかなるまい。

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