『ファンタスティック・ビースト』敵対する2人の変わらぬ愛 ニュートの成長を感じる台詞も

1月12日から始まった『金曜ロードショー』(日本テレビ系)の「ハリー・ポッター魔法ワールド」4週連続放送のラストを飾るのは、『ファンタスティック・ビースト』シリーズ最新作『ファンタスティック・ビーストとダンブルドアの秘密』だ。

これまでに2016年公開『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』、2018年公開『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』とシリーズを連ねてきた本作。1作目では主人公の魔法動物学者ニュート・スキャマンダーと魔法動物たちにスポットを当て、2作目では重厚な人物相関とともにダークな世界観へと転調していき、キャラクターそれぞれが抱く正義を描いてきたが、3作目は原作者のJ・K・ローリングが『ハリー・ポッター』シリーズを含めて度々描こうとしてきた重要なテーマを体現した作品であるように思う。そのわけを、本稿では綴っていきたい。

3作目『ファンタスティック・ビーストとダンブルドアの秘密』は、2作目でいよいよ宿敵となった闇の魔法使い、グリンデルバルド(マッツ・ミケルセン)と、彼と一度は目指す道を同じくしたものの、過去のある一件で決裂したアルバス・ダンブルドア(ジュード・ロウ)の関係性と対峙に物語がフォーカスされている。

グリンデルバルドの「より大きな善のために魔法界を支配する」目的のために利用されるのは、神聖な魔法動物であり、人の善なる心を見抜くという「麒麟」だ。この麒麟が、本作においてとても重要な立ち位置にいる。

登場人物たちの「善悪の心」をジャッジする麒麟。グリンデルバルドはその性質を利用し、魔法界を意のままに操ろうともくろむ。この麒麟が実にJ・K・ローリングが生み出したクリーチャーらしいと感じるのは、前シリーズ『ハリー・ポッター』でも善悪の在り方を問う描写がされていたからだ。

作品において、善悪の両極端にいるハリーとヴォルデモートは精神的に特別なつながりを持っていた。ハリーが“持って”いてヴォルデモートに“持てなかった”もの、それが彼らの立ち位置を決めたのだ。善と悪は表裏一体であり、裏表のあるコインのようなものーーそんなローリングの考える善悪二元論の中に見出す「グレー」な部分、その奥ゆかしさと、善悪のジャッジをする行為自体に考えを向けてほしいという思いを表現しているのではないかと感じる。

また、『ハリー・ポッター』から通底していると感じる部分は他にもある。前シリーズがファンタジーながら世界中の読者を魅了したのは、単にファンタジーの要素を緻密化し、リアリティを持たせただけでなく、登場人物たちそれぞれが抱える複雑な「愛」における感情を拾い上げて描いていたからだ。本作でも、敵対するグリンデルバルドとアルバスの過去にも触れ、彼らの間に今も変わらず漂い続ける「愛」をほのめかす場面が印象的だ。彼らの間の「愛」は2作目にも登場する、互いに争いができないよう誓った「血の誓いのペンダント」の存在でよりいっそう誇張して描かれる。そういった「愛」にまつわる描写にも、魔法ワールド特有の魅力を感じざるをえない。

そして忘れてはいけないのが、この物語が主人公ニュートの成長譚であることだ。『ハリー・ポッター』でもそうであったように、『ファンタスティック・ビースト』にも主人公の成長物語であるというセオリーは継承されている。魔法使いとしては勿論、世界にまなざしを向け、自分はどのような行いをすれば良いのかを考えるひとりの人間として、ニュートは1作目から3作目にかけて目に見えるように成長する。魔法動物だけでなく、周囲にいる人間たちや魔法界全体の未来に考えを向けるようになるのだ。

1作目との違いを感じることのできるニュートの発する台詞が3作目にはちりばめられているので、ぜひそういった視点でも物語を楽しんでもらえればと思う。

『ファンタスティック・ビースト』シリーズは開始当時から全5部作と報じられていたが、デヴィッド・イェーツ監督によると現在はさまざまな理由から続編の製作が棚上げ状態だという。魅力多き作品なだけに、非常に残念でならない。どうか彼らの行く先を最後まで見守れるよう、祈り続けるばかりだ。

(文=安藤エヌ)

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