夜遊びばかりの上に義母ファーストな夫…我慢を続けた女性が離婚を決意した「決定的な理由」

<前編のあらすじ>

中国地方在住の山口紗理さん(50代・既婚)は、独身時代に母親からコントロールされる日々を過ごした。23歳になる頃、1歳年上の男性と結婚するも、第1子を出産すると夫は豹変。会社の後輩の誘いをきっかけに、パチンコやビリヤードなどさまざまな夜遊びに明け暮れ始めた。

●前編:【「自分はバカ」と思い込まされてきた女性…毒母が作り上げた娘の「異常なまでの我慢体質」】

夫の正体

山口さんは無事長男を出産。夫は立ち会ったが、「女として見られなくなった」と言い、山口さんはショックを受ける。妊娠中に遊びを覚えた夫は、家事育児を全く手伝わなかった。5年後に長女を出産するときも夫は立ち会ったが、やはり子どもと積極的に関わろうとはしない。

結婚して6年ほどたった頃、山口さんの母親のすすめで、山口さんの実家の隣に家を建てた。20歳のときに亡くなった父親の形見分けで、山口さんの名義になっている土地だった。

家が完成すると、山口さんの母親が毎日のように入り浸るようになった。夜遊びに明け暮れていた夫は、ますます家に帰ってこなくなっていった。

そして結婚して10年目。義父が急な病で亡くなった。

山口さんは夫と子どもたちとともに義父の通夜・葬儀に参列する。すると夫は、葬儀場に着くなり妻と子どもを放り出し、義父を亡くして肩を落とす義母に駆け寄る。

山口さんは、10年前の結婚式以来、初めて顔を会わす親戚ばかりの中、どこに座ったらいいかも分からず立ち尽くし、取りあえず空いている席に腰を下ろした。

「お通夜の間、私は子どもたちを抱きしめながらこれからの人生を考えていました。流れる涙は義父のためではなく、存在価値を見失った自分のための涙でした」

通夜の後、夫は義母と兄ともに葬儀場に泊まり、山口さんは子どもたちを連れて帰宅。翌朝、再び葬儀会場に行くと、夫はこう言った。

「お前、昨日一般席に座ってたんだって? 今日はちゃんと親族席へ座れよ! お袋が恥ずかしかったって言ってたぞ!」

葬儀が終わり、精進落とし(おとき)が始まると、お膳が1つ足らない。「お前が遠慮しろ」という空気を感じた山口さんは、夫に助けを求めて振り返ると、夫はさっさと座って食べ始めている。

がくぜんとしつつも山口さんは、「お膳が足らないらしいから、私はコンビニにおにぎりを買いに行ってくる」と嫌み混じりに夫に伝えると、夫は顔も上げず「チョコ買ってきて」と答えた。

堪忍袋の緒が切れる

「私が離婚を決意した一番の理由は、子どもたちに無関心なことでした。たまに子どもたちと遊んでも数分で終わり。宿題を見てくれたこともない。自分から子どもに関わろうとせず、平気な顔で『子育てはお前に任す』と言い放ちました」

長男が7歳、長女が2歳の頃、大きな地震があったが、子どもの心配より自分の母親の心配ばかり。子どもの登校時間に平然と朝帰りをし、「車で仮眠してたら朝だった」とバレバレのウソをつく。

「義父の通夜葬儀でマザコンだったことが判明したうえ、平気で朝帰りするようになると、さすがに堪忍袋の緒が切れました……」

山口さんが「離婚してほしい」と伝えると、「改心する。ギャンブルもやめる。子どもとも遊ぶ。だから離婚しないでほしい。仮面夫婦でもいい。お袋が悲しむ姿を見たくない!」と食い下がり、何カ月たっても離婚届に判を押してくれない。

離婚を切り出してから8カ月ほどたった頃、しびれを切らした山口さんは、思わずこう言ってしまう。

「慰謝料はいらないからとにかく離婚して!」

すると夫は手のひらを返したように離婚届に判を押し、「俺には子育ては無理。お前が育てて」と言った。

天国と地獄

離婚が決まると、約4年前に建てたばかりの家は売却することになり、出ていかなければならなくなる。

隣の実家に移るという選択肢もあったが、母親との同居はどうしても避けたかった。悩んだ末に山口さんは、ボロボロの小さなアパートを借りて、親子3人で暮らし始めた。

「実家の隣に住んでいた頃は、母は暇さえあればわが家に来ていたので、常に監視されている気分でした。でも、母と離れてみると、生活が一変しました。とにかく楽で、呼吸が苦しくないのです。貧乏でしたが、子どもとのかけがえのない毎日が本当に幸せでした」

一方で、離婚後の山口さんをさまざまな試練が待ち受けていた。

持ち家を売却したところ、母子扶養手当と児童手当が止められてしまったのだ。

土地は山口さん名義、建物は夫名義で、建物のみ住宅ローンを組んで購入しており、売却して入ったお金は、全て残っていた住宅ローンの返済に消えた。それなのに、土地が山口さん名義だったため、収入が増えたとみなされたのだ。

急いで役所に掛け合ったが、窓口の担当者には、「お気持ちは分かりますが、こればかりはどうしようもありません。仕事を減らして生活保護の申請をするか、ご実家があるなら帰られては?」と提案されてしまう。

山口さんは結婚を機に金融系の会社を退職。父親が亡くなった後、母親が経営する会社を継ぐために戻ってきていた兄に誘われ、山口さんも母親が経営する会社を手伝っていた。

「実家に戻れば24時間365日母と一緒で、一生母の奴隷として生きることが確定し、私の精神が崩壊することは明らかでした。きっと、もっといろいろな人に相談すれば他の制度やサポートがあったのだと思いますが、当時の私は1人で抱え込み、離婚も計画性が必要だということを思い知りながら、がむしゃらに働きました……」

山口さんは母親の会社の仕事の他に、母親には内緒で日払いの夜のバイトを始めた。昼の仕事が終わるのが18時。その後夕食の準備をし、子どもたちと一緒に食べた後、20時から通常は23時、忙しいときは深夜1時まで働いた。

「長男が高学年だったので、長女のことを頼んで働いていました。翌年長女が小学校に上がったのですが、ランドセルは入学式の2カ月前に半額セールで購入しました。長女に申し訳ない気持ちでいっぱいでした……」

毒親がつくり上げた我慢体質

母親は山口さんの離婚後、実家に身を寄せない山口さんに憤り、さらに強く当たるようになっていった。母親の会社を手伝っている手前、母親とは毎日顔を合わせる。

「あんたに実家はいらないんだね。私のことが必要ないなら親子の縁を切ろうか」と口癖のように縁切り宣言をしてくる。

その度に山口さんは、「また始まった。本当にめんどくさい。縁を切りたいのはこっち方だし!」と思いながらも耐えた。

一方、元夫は離婚後、会社を辞め、行方をくらました。一度も養育費を払うことはなく、子どもたちに会いに来ることもなかった。

「元夫は、浮気をしたこと、仕事で集金したお金をギャンブルに使ってしまったこともありました。ボーナスは全てギャンブルに注ぎ込み、決して裕福ではないのに、車検が来る度に車を買い替えていました。私は高校2年から、ただひたすら我慢していました。毒親育ちの特徴の1つである異常なまでの我慢強さが、全て悪い方へ働いたと思っています。『私が我慢すれば誰も悲しまず、平穏無事に終わる』と思っていましたが、我慢は結局、問題から逃げているだけでした。当時は自覚こそありませんでしたが、元夫や母親の言葉にこれ以上傷つきたくないから、反論せずに石のようになっていたのです。今は、我慢は美徳ではないと気付きました」

現在山口さんは、母親と絶縁し、自分で会社を経営。2人の子どもは成人し、それぞれ結婚して幸せに暮らしている。

「ダメ元夫に1つだけ感謝していることは、2人の子どもを育てさせてくれたこと。毒親育ちの私ですが、子どもたちを毒牙にかけず、無事に育てられたかな……? これからも遠くから見守っていきたいと思います」

旦木 瑞穂/ジャーナリスト・グラフィックデザイナー

愛知県出身。アートディレクターなどを経て2015年に独立。グラフィックデザイン、イラスト制作のほか、終活・介護など、家庭問題に関する記事執筆を行う。主な執筆媒体は、プレジデントオンライン『誰も知らない、シングル介護・ダブルケアの世界』『家庭のタブー』、現代ビジネスオンライン『子どもは親の所有物じゃない』、東洋経済オンライン『子育てと介護 ダブルケアの現実』、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、日経ARIA「今から始める『親』のこと」など。著書に『毒母は連鎖する〜子どもを「所有物扱い」する母親たち〜』(光文社)がある。


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