こけら落としの新サッカースタジアム建設までの軌跡 20年以上の紆余曲折・苦難の道を一気に振り返ります Jリーグ発足からW杯開催地落選 平行線の候補地選び 紆余曲折あって中央公園に作られた翼のスタジアム 

ついにスタジアムで初めての試合が行われます。まずは、紆余曲折を経て、ここまできたスタジアムの道のりをたどります。

1993年、Jリーグが開幕しました。マツダサッカークラブからプロチームとなったサンフレッチェは、当初は広島スタジアム、そしてアジア大会のために建設された広島ビッグアーチを使用していました。

2002年ワールドカップに向けてビッグアーチを開催場所として広島も立候補をしましたが、規定によりバックスタンドの屋根かけなど改修が必要になりました。当時の平岡市長は、財政状況を理由に屋根かけを断念。候補地から外されました。

ビッグアーチは当時から、試合後の渋滞など交通アクセスの問題や、陸上競技場でもあるため、スタンドとピッチが遠いなどで、課題が解決されるサッカースタジアムの建設の声はサッカー関係者を中心に上がっていました。そして…

ワールドカップの翌年の2003年、当時の秋葉広島市長が、サッカー専用スタジアム建設を検討したいという公約を掲げ再選…。直後に県・広島市・広島商工会議所サンフレッチェなどが「スタジアム推進プロジェクト」を立ち上げ、検討を進めることになりました。

しかし、半年もしないうちに広島市が緊縮財政に転じるなど、風向きは大きく変わります。広島市民球場が貨物ヤード跡地に移転が決定したあと、跡地利用でもスタジアムは検討されましたが、2009年1月…

広島市 秋葉忠利 市長(当時)
「特定のスポーツ種目の利用を前提とした跡地利用は考えていません」

スタジアム問題は前に進みませんでした。

次の転機は、2009年のマツダスタジアム開業です。次はサッカースタジアムだと言う機運を盛り上げるため、2012年、県サッカー協会とサンフレッチェ・サンフレッチェ後援会が、「START FOR夢スタジアムHIROSHIMA」を立ち上げ、署名活動など積極的に展開します。

サンフレッチェ広島 森崎和幸 選手(当時)
「専用スタジアムとタイトルがぼくの夢なので」

サンフレッチェ広島 森保一 監督(当時)
「次はまた専用スタジアムで…」

サンフレッチェはその年のシーズン、リーグ戦初めての年間優勝を果たし、37万筆の署名が集まったことを、広島市などに報告しました。

サッカースタジアム検討協議会が設置され、具体的な候補地の検討に入りました。しかし絞り込みは難航。「広島みなと公園」と「旧市民球場跡地」の2か所を候補地として残し、報告しました。

県と広島市・商工会議所の3者は「広島みなと公園」を優位とすると表明しましたが、地元の港湾業者からは、試合開催時に輸送の定時制が保てないと反対の声が上がります。そして…

サンフレッチェ広島 久保允誉 会長
「みなと公園に新しいスタジアムの建設が決まった場合、サンフレッチェは新しいスタジアムを使うつもりはございません」

サンフレッチェの久保会長は、経済的効果の観点からみなと公園ではなく「旧市民球場跡地」を建設地とする構想を打ち出しました。3者は結論を先送りし、2つの候補地のまま平行線をたどります。その中で広島商工会議所の深山会頭が、あいだを取り持ち、初めて深山会頭からこの言葉が出てきたのです。

小林康秀 キャスター
「なかなか2択というのは難しい印象があるが?」

広島商工会議所 深山英樹 会頭(当時)
「具体的に言うと、例えば中央公園とか幅広く考えて、そういったのはあるのではないか」

新たに第3の案の検討が浮上した瞬間でした。サンフレッチェを含む4者が顔を合わせ、候補から外れていた「中央公園広場」案で検討を加速させます。

一方、中央公園そばの基町地区では騒音や渋滞などへの懸念から建設反対の声も上がり、住民と話し合いを行いました。

2019年2月の広島市・県・商工会議所・サンフレッチェの四者会談で…

広島市 松井一実 市長
「総合的に中央公園が最も適しているということになった」

サンフレッチェ広島 久保允誉 会長
「合意案について異論はございません」

2019年2月、中央公園広場を最終候補地として合意しました。コンペの結果、回遊性があり、開放的な作りの大成建設などの共同企業体が出した案に決定しました。

2022年2月1日が起工式。徐々に地上に構造物が建ち始めました。大屋根の建設も行われました。そして完成したスタジアム―。

Jリーグ発足から実に30年…。長い議論を経て、ついに選手が「夢のピッチ」に立ちます。

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