『夜明けのすべて』夜明けの呼吸の整え方

『夜明けのすべて』あらすじ

月に一度、PMS(月経前症候群)でイライラが抑えられなくなる藤沢さんはある日、同僚・山添くんのとある小さな行動がきっかけで怒りを爆発させてしまう。だが、転職してきたばかりだというのに、やる気が無さそうに見えていた山添くんもまたパニック障害を抱えていて、様々なことをあきらめ、生きがいも気力も失っていたのだった。職場の人たちの理解に支えられながら、友達でも恋人でもないけれど、どこか同志のような特別な気持ちが芽生えていく二人。いつしか、自分の症状は改善されなくても、相手を助けることはできるのではないかと思うようになる。

距離感の映画


心地よい疲労感を残しつつ、次の朝がやってくる。薄明の中をたゆたう人と人の影。草花がゆっくりと背伸びをする。まるで世界のすべての呼吸が整っていくように感じられる特別な時間帯。三宅唱監督の映画には、明け方にしか生まれない独特の空気がいつも捉えられている。瀬尾まいこ原作の『夜明けのすべて』(24)。このタイトル自体が、既に三宅唱の映画そのものを表わしているといえる。

「いったい私は周りにどういう人間だと思われたいのだろうか」(瀬尾まいこ「夜明けのすべて」)

原作は上記の一文から始まる。藤沢美紗(上白石萌音)にはこれといった野心がない。彼女はただ他人に迷惑をかけないよう、自分なりの正しさを求めて生きているように見える。しかし藤沢はPMS(月経前症候群)のせいでイライラを抑えることができなくなる。ほとんどの仕事を卒なくこなすだけの能力があるのに、生理前になると些細な事が気になり、人前で怒りを爆発させてしまう。

『夜明けのすべて』予告

ある日、勤務先で怒りをぶちまける藤沢の姿が携帯の動画に収められる。その動画には藤沢をなだめようとする同僚の姿が捉えられている。しかし穏便に済ませようとするその言葉が、藤沢の苛立ちを更に増幅させていく。PMSの発作のせいで彼女は過酷な生き辛さを感じている。そしてそんな自分にうんざりしている。ここにはいられない。結局どの職場も逃げるように去っていくしか選択肢がなくなっていく。しかし仕事をしなければ生活はできない。

そんな藤沢にとって栗田科学という職場は、やっとのことで見つけた安住の地といえる。同僚たちは彼女より二回りくらい離れた年上の人たちばかりだ。職場の雰囲気もガツガツとしていない。ここには彼女が求めていた“距離感”がある。そして本作は“距離感”そのものが描かれた映画だ。

この職場で藤沢は、パニック障害を抱えた山添(松村北斗)と出会う。藤沢と山添は決して恋愛に昇華されない距離感を保ち続ける。二人の物理的・精神的な距離感、関係性が本作を特別なものにしている。藤沢と山添の間にはまったく打算が生まれない。お互いの症状を自分の守備範囲でケアしていきたいという気持ちだけがある。何より打算がないということが、どれほど二人にとってありがたいことか。

この役は上白石萌音と松村北斗でしか成立することはできないだろう。そこが素晴らしい。二人の瞳がお互いの何かを発見、察していく姿には嫌味がない。本作では二人が交互に文章を音読するシーンがあるが、二人の共演自体がまさしく“デュエット”のようなのだ。

お節介というメッセージ


『夜明けのすべて』は藤沢が倒れ、雨でずぶ濡れになるシーンから始まる。警察に保護された藤沢を母親(りょう)が引き取りにくる。警察署から出てきた二人が傘もささずに足早に走り去っていく何でもないショットが素晴らしい。一人暮らしの娘を心配していろんなものを送ってくる母親。娘はそんな母親のお節介に少し疲れているが、母親の育て方は確実に娘に受け継がれている。藤沢はPMSの症状で職場に迷惑をかけたときなど、同僚にお菓子を差し入れする行為が自然と身についている。藤沢の行動を見ているだけで、彼女がどのように育てられてきたか分かるようになっている。物語として描かれない部分、藤沢のバックグラウンドを想像することができるのだ。

とりわけ、山添の恋人・千尋(芋生悠)と藤沢のやり取りが素晴らしい。藤沢は届け物をするために寄った山添の部屋の前で千尋と出会う。留守なことを知った藤沢は、食べ歩きをしながら家路につく(本作では藤沢=上白石萌音のお菓子を頬張る姿がとても印象に残る!)。千尋は藤沢を追いかけて話を聞こうとする。藤沢は神社で買ったお守りが余ったからと、おもむろに千尋にプレゼントしようとする。たったこの一瞬のやり取りで千尋は山添の同僚を名乗る藤沢という女性が、いったいどういう人柄なのかを察する。彼女がどのように育てられてきたのかを想像する。目の前にいる女性にまるで打算がないことを見抜く。藤沢という女性が、自分や山添の敵ではないことを知る。千尋は防御本能を完全に解除する。世話焼きでまったく嫌味のない藤沢というキャラクター。冒頭シーンで雨の中を同じようなアクションで駆けていった母と娘の相似。その後の藤沢=上白石萌音の一つ一つの身振りは、母と娘がとてもよく似ていること、同じ生活空間で長く過ごしたことを見事に表わしている。それはとても尊い。

『夜明けのすべて』Ⓒ瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会

そしてここにはお節介という名のメッセージがある。たとえば栗田科学の社長(光石研)が炭酸水を好む山添に向かって「味のない炭酸水って美味しいの?」と語りかけるシーン。栗田社長は本当に炭酸水に興味があるわけではないだろう。きっと会社の中で孤立ぎみの山添を気にかけて話しかけているにすぎないのだ。まったく何でもないように見えるシーンだが、ここには“あなたのことを気にかけています”という小さなメッセージがある。

藤沢と山添の関係性も同じだ。山添はPMSについての本を自発的に読み、藤沢の挙動をよく見ながら彼女をケアしようとする。山添=松村北斗のまなざしにはまるで打算がない。山添のまなざしは“あなたは一人じゃないんだよ”という共助のメッセージを送り続けているように見える。松村北斗の真っすぐで愛らしい澄んだ瞳に、この映画の命運が賭けられている。そこがあまりにも感動的だ。

同じ星を見上げ、呼吸を整える


“わたしたちは一人じゃない”。『夜明けのすべて』の栗田科学の事務所の風景に、青山真治監督の『サッド ヴァケイション』(07)の間宮運送と似た空気を感じずにはいられない。『サッド ヴァケイション』の間宮運送も様々な事情を抱えた人たちが集まる職場だった。同じように栗田科学の事務所の風景は、三宅監督の前作『ケイコ 目を澄ませて』(22)のボクシングジムの空気を想起させる。そして『ケイコ 目を澄ませて』のボクシングジムと同じく、音の演出が主役の二人を立体的に囲んでいる。

山添が炭酸水ペットボトルのキャップを開ける「シュッ」という音が、藤沢のPMS発症の引き金となるシーン。またはパニック障害によって電車に乗ることができなってしまった山添が、駅のホームで乗車にチャレンジする際の、暴力的とさえ思える列車の轟音。卓球台に球が跳ねる音。古いテープに残された人の声。藤沢と山添による音読の声。すべてを包み込むようなHi’Specの手掛けたミニマルに繰り返される素晴らしい劇伴。そして本作で二人がもっとも耳の近くで聞く音は、藤沢が山添の髪をハサミで切るシーンだ。恋愛に収束されない距離感そのものを描いた本作において、だからこそ二人の“接近”シーンには、言葉を交わす以上の連帯が生まれている。

『夜明けのすべて』Ⓒ瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会

また、それぞれの住む部屋に向かう際の移動と省略の関係が面白い。姉御肌の藤沢の決断の早さを表わすように、彼女の訪問シーンはあっという間に省略されている。それに対して山添が藤沢の部屋に向かう際は、自転車での移動が長めに撮られている。自転車で移動する間、山添はおそらくいろいろなことに思いを巡らせている。藤沢のこと、栗田科学が企画するプラネタリウムの展示会のこと、自分の人生の現在地のこと。そして山添が思いを巡らせた成果は、栗田科学の同僚たちへの具体的な行動として表現されていく。誰かと同じ空間で過ごすということは、相手の習慣や身振りを無意識の内に自分の内側に取り込んでいくものなのかもしれない。藤沢家の母と娘の関係のように。身振りが乗り移ること、動きのシンクロは三宅映画の真髄でもある。

『夜明けのすべて』は機械的に送る誕生日のお祝いメールや、お節介とも思える身近な人の行動の中に、実は大切なものが隠れていることを教えてくれる。思いの大小はそれほど問題ではないのかもしれない。誰かが少しでも自分のことを気に留めてくれていることのありがたみを、この映画から改めて感じ、涙する。その積み重ねが反響し合って、人は離れ離れになり、どこかで同じ星を見上げ、次の朝を迎え、呼吸を整える。この新たな傑作は、ルーティンの生活、つまり私たちの人生を全面的に肯定してくれている。

文:宮代大嗣(maplecat-eve)

映画批評。「レオス・カラックス 映画を彷徨うひと」、ユリイカ「ウェス・アンダーソン特集」、リアルサウンド、装苑、otocoto、松本俊夫特集パンフレット等に論評を寄稿。

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『夜明けのすべて』

2月9日(金)よりロードショー中

配給:バンダイナムコフィルムワークス=アスミック・エース

Ⓒ瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会

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