小澤征爾さん死去 ケガでピアニストから指揮者の道へ、社会問題化した「N響事件」で世界に飛び出し活躍

2016年10月、東京都名誉都民顕彰式に出席した小澤征爾さん

「世界のオザワ」として知られる指揮者の小澤征爾さんが心不全のため、2月6日に都内の自宅で亡くなったことが9日、分かった。88歳だった。

小澤さんは、指揮者になった理由について、『GQ JAPAN』で中学生時代、親に内緒でやっていたラグビーでケガをしたことがあったことを明かしている。

当時は音楽家を目指し、父と兄が3日3晩かけて横浜から立川までリアカーで運んだというピアノで、練習していた。しかしケガをしたことで、内職をしてまでピアノを習わせてくれた母親に、泣かれたという。

そして「(ケガのために)もう音楽をあきらめなきゃいけないんだと思い、ピアノの先生のところに行ったら『指揮者をやってみたらどうか』って」と提案された。それが転機となって、指揮者として1959年、ブザンソン国際指揮者コンクール第1位となり、ヘルベルト・フォン・カラヤン、レナード・バーンスタインに師事。1961年には、ニューヨーク・フィルハーモニーの副指揮者に抜てきされ、俊英として注目された。

そんななかで1962年に起きたのが「N響事件」だった。

「NHK交響楽団(N響)と半年間の指揮契約を結んだものの、27歳の小澤さんに対して『生意気』『態度が悪い』などの反発から、演奏をボイコットされたのです。

N響が『今後、小澤氏の指揮する演奏会、録音演奏にはいっさい協力しない』と表明。小澤さんとNHKは折衝を重ねましたが折り合わず、逆に小澤さんが契約不履行と名誉毀損で訴える事態となってしまいました。

その後、政財界まで巻き込む社会問題に発展し、浅利慶太さん、石原慎太郎さん、三島由紀夫さんらが『小澤征爾の音楽を聴く会』を結成してNHKとN響に質問書を提出。最終的には、1963年1月にNHKの副理事と小澤さんが話し合いの場を持ち、和解が成立しました。

これをきっかけに小澤さんは日本に見切りをつけ、世界に目を向けるようになりました」(音楽ライター)

その後、シカゴ交響楽団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団など名だたる楽団を指揮いて「世界のオザワ」と呼ばれるようになった。1971年には新日本フィルハーモニー交響楽団を創立、1973年には米国5大オーケストラのひとつ、ボストン交響楽団の音楽監督に就任した。1998年の長野冬季五輪では音楽監督を務め、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を受章した。

2008年に文化勲章を受章。2010年には食道がんと診断され、食道全摘出手術を受けながらも、演奏活動に復帰していた。

小澤さんの逝去に、SNSでは数々の追悼の声が書き込まれた。

《小澤さんの言葉を聞いて、精一杯生きる姿に感動いたしました。 こういう生き方を目指したい》

《アルバムを聴きながら思いに馳せようと思います。 ご冥福をお祈りします》

《私が高校生の時。 母と市原文化ホールで小澤征爾さんの指揮する演奏会に行った帰り。 五井駅にまさかのご本人。気さくに握手して頂いた事を思い出す》

「小澤さんの息子で俳優の小澤征悦(ゆきよし)さんは、2021年12月11日放送の『人生最高レストラン』(TBS系)で、父・征爾さんとの思い出を話していました。

『10歳のとき、スティーブン・スピルバーグに会ったんです。親父が紹介してくれて。僕はE.T.が大好きで、顔マネをスピルバーグさんの前でやったら、ものすごくウケてくれて』と回想。さらに『その後、お手紙をいただいたんですけど“I love your E.T.face”って書いてくれて。額に入れて、部屋に飾ってあります』と明かしていました」(芸能ライター)

後輩の指揮者・佐渡裕らにも大きな影響を与え、甥にはミュージシャンの小沢健二もいる小澤さん。息子の征悦も含め、各方面に「世界のオザワ」の遺伝子は受け継がれていくのだ。

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