『ブギウギ』に詰まった共助・互助の理想 朝ドラでスズ子をシングルマザーとして描く意義

「ほら、さっさと行きなさいよ。あなたの下手な歌をお客さんが待ってるんでしょ」
「福来くん、お客さんが待ちくたびれてますよ。さあ行こう」
「ほな愛子、お母ちゃん、お客さんとズキズキワクワクしてくるわ」

日帝劇場楽屋に集った福来スズ子(趣里)、羽鳥善一(草彅剛)、茨田りつ子(菊地凛子)。『ブギウギ』(NHK総合)第19週第91話では、ついに第1話冒頭のシーンに戻ってきた。朝ドラではよく見かける「第1話冒頭で『見せどころ』のシーンを登場させ、中盤以降に再演する」というこの仕掛け。本作がクライマックスに設定したのはこの週のタイトルでもある「東京ブギウギ」初披露のエピソードだった。

あの戦争を生き延び、乗り越えて、スズ子の新曲披露というハレの日。4カ月超、第91話まで3人の人生を追いかけてきた視聴者には、1話で見た同じ「楽屋シーン」とはまた違って映ったはずだ。

わずか1分少々の短さではあるが、この「楽屋シーン」は本作のテーマと「核」を明白に表していた。2023年10月、番組放送開始日に公開された制作スタッフへのインタビュー(※)で、チーフ演出の福井充広氏はこう語っていた。

(このドラマの)柱となるのは、「エンターテインメントの力」「雑草魂」「母と娘」という3つのキーワード。

「3つのキーワード」がすべて、この1分に詰まっている。スズ子は仕事場に乳飲子の愛子を連れてきている。ステージに向かい、後ろ髪引かれながら、愛子をりつ子に預ける。「母と娘」の物語であり「エンターテインメントの力」を描こうとしていることがわかる。事前のナレーションで、スズ子がシングルマザーであることはわかっており、戦争を乗り越えて、艱難辛苦を乗り越えての「今」なのだな、と察しがつく。笠置シヅ子さんの史実を知っていても知らなくても、ここまでスズ子が「雑草魂」でなんとか生き延びてきたのだろうと想像できる。

たった1分にこれだけの情報量を詰め込む手際に感心するが、「楽屋シーン」にはその他にも、このドラマの「核」が忍ばされていたように感じる。

別稿「『ブギウギ』六郎役・黒崎煌代はとんでもない俳優になる “生きている”演技の只者じゃなさ」でもふれたが、“「世の中の規範」の枠に収まらない人たち”を誰ひとり取り残すことなく、せめてこの物語の中だけでは幸せになってほしい、そんな願いがこのドラマには込められている気がしてならない。社会的包摂への祈りが、この1分に集約されているように思える。

結婚の許しを得られないまま愛助(水上恒司)が結核で亡くなってしまったため、結果として愛子は「父なし子」となってしまった。戦争が終わったばかりの日本で、戦死ではなく婚約者と死別したシングルマザー。これが当時の日本の実社会であれば相当な風当たりだったことだろう。しかしスズ子は、周りのみんなの助けを得ながら生きていく。ステージの間、愛子を預かるりつ子の姿がそれを示している。

後に、りつ子もまた娘を持つ母親であり、ある事情を抱えていたことが明かされた。りつ子は子どもよりも歌を選んで、青森に住む母に娘を預けっぱなしでそのまま会っていないのだという。その事実をふまえての、あの「楽屋シーン」はまた意味合いが違ってくる。愛子をあやすりつ子の口から「愛ちゃんは私のおっぱい飲んどげな」と青森弁がこぼれる。これは、捨ててきた我が娘のことを思いながら出た言葉なのではないか。子を捨てたりつ子と、貰い子として育ちシングルマザーとなったスズ子は、形の違う悲しみを癒やしあい、凹と凸のように補いあって共生していくのだろうと想像できる。

第19週では、いちばん手のかかる月齢の愛子の子育てと、スズ子の仕事復帰が重なる。「東京ブギウギ」のレコーディングやレビューの稽古が始まる中、周りからはベビーシッターを雇うことを勧められるが、スズ子はなるべく自分の手で、自分の目の届くところで育てたいと言い「子連れ出勤」を願い出る。傍から見たらそれはスズ子の勝手ということになるのかもしれない。愛子が泣くたびに稽古がストップして、他の演者に迷惑がかかる。面倒を見るマネージャーの山下(近藤芳正)も大変だ。

しかし、母・ツヤ(水川あさみ)を病気で亡くし、弟・六郎(黒崎煌代)を戦争で喪い、そのうえ最愛の人、愛助までをも病気で亡くしたのだ。もう二度と、自分の目の届かないところで愛する人を失いたくないというスズ子の気持ちを、誰が責められようか。しかし責める人はいるし、いてもしかたない。劇場スタッフに「自分勝手なんだよ、スターさんは」と陰口も叩かれた。これがらがまさに「世間の声」なのだろう。

「子連れ出勤」は笠置さんの史実に沿って作劇されている。この部分を果たして「令和仕様」にアレンジして「シッターを雇う」に変えてしまってもいいのだろうか。筆者は、この「子育て出勤」のエピソードは、モデルである笠置さんの「核」の部分であり、『ブギウギ』の核の部分ではないかと思うのだ。これは「母と娘」の物語だ。愛する人を失って失って失ったスズ子が、生まれた我が子と共に生きて、歌って、また生きる物語だ。

「スズ子がわがままを通して手元で育児することで、保育所に子どもを預けて働くママを否定することにならないか」という主旨のSNSの投稿も目にした。作り手がそんなことを望むなどあろうはずがない。もちろん、子どもを保育所に預けて働くママは尊重されるべきだ。同時に、働きながら自分のそばで育てたいスズ子も、そして笠置さんも尊重されるべきではないだろうか。スズ子はその選択をした。もちろん違う選択をするママもいる。どんな選択も本人の意思であれば尊重されるべきだ。それが真の「多様性の重視」ということではないのか。

このドラマは、共助・互助の理想も描こうとしている気がする。スズ子はきっと、子育て期に周りからもらった恩を、いつかツヤから教わった「義理と人情」で返していくだろう。個人への恩返しにとどまらず、広く社会に還元していくのかもしれない。現に今、日本中を奮い立たせる「東京ブギウギ」を歌い始めたことで、その入り口に立っている。

本作は「人間の業」や「シビアで苦い現実」が精度高く描かれる一方で、第8週の「ゴンベエとアホのおっちゃんの桃」のような“ファンタジー要素”が時折差し込まれる。別稿「『ブギウギ』はなぜ大切な人たちの死を描いてきたのか “混ぜこぜ”の前半戦を総括」で筆者は「混ぜこぜ」と形容したが、この混沌が『ブギウギ』らしさだと思っている。

少しずつ足りない人たちが、少しずつ力を貸しあって生きてけばいい。「甘っちょろいファンタジーだ」「絵に描いた餅だ」と言われるかもしれないが、フィクションになら、祈りを込めてもいいのではないか。

シングルマザーのスズ子も、ボンボンのまま志半ばで亡くなってしまった愛助も、子を捨てたりつ子も、「ちょっとトロい」六郎も、飲んだくれでだらしなかったけれど今はちょっと更生した梅吉(柳葉敏郎)も、最期に母のエゴを置いて逝ったツヤも、借金から逃げて記憶を失ったけれど“ツヤの恩返し”で幸せになったゴンベエ(宇野祥平)も、毎日タダ湯をもらいにきていた恩を桃で返したアホのおっちゃん(岡部たかし)も、みんなそれぞれこの世で、あの世で、自分らしく暮らしている。そんなファンタジーがあってもいいじゃないか。

「東京ブギウギ」や主題歌「ハッピー☆ブギ」の「タッカタッカ」というリズムは別名「シャッフル」と呼ばれる。平坦ではない、この偏って跳ねるリズムがまさに『ブギウギ』なのだ。そういえばこの朝ドラは最初から今まで、ずっと「偏って跳ね」ていた。

生と死、禍と福、アイロニーとファンタジー、痛み、喜び、苦しみ、優しさ、怒り、愛。全部抱きこんで『ブギウギ』は進む。偏って跳ねるリズムに乗せて、スズ子は喉を唸らせ全身を躍動させて「東京ブギウギ」を歌う。これからは何があっても、愛子と、歌と生きていく。その姿はこれまででいちばん輝いていた。

参照
※https://maidonanews.jp/article/15017589

(文=佐野華英)

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