デリケートな復興の行方(2月11日)

 元日の夕方、私は町内の神社でお参りしたあと、仁王門の下に立ったまま急な揺れを感じた。頭上の梁[はり]がギシギシと鳴り、地面も振動し、すぐに女房のスマホから警報音が聞こえた。そして能登半島方面の地震であることが告げられ、津波も予告された。これは相当大きい。そう思ったとおりの結果が次第にわかってきた。

 気がかりだった志賀原発は一応無事だというが、これはまだ信用できない。電力会社があまりにも前科を重ねたからである。

 そして今回は、東日本大震災のときと比べると、避難について迷う人々が多いのが特徴ではないだろうか。

 あの震災では、津波ですでに家がなかったり、加えて原発から漏れ出た放射能の脅威もあった。家族の遺体が見つからないなど、迷う事情もあるにはあったが、とにかく「避難指示」が出され、否[いや]応[おう]なく避難せざるを得なかった。避難の途中で亡くなった病院の患者など、これはこれで問題もあったが、迷う余地がなかったのはある種の救いかもしれない。今の能登半島の様子をテレビで視[み]ていると、そう思ってしまうのである。

 被害の大きかった輪島市、珠洲市、能登町などでは、約3割以上が市町外に避難しているという。つまり6割強は今も自宅や一次避難所などに残っているのだ。しかも読売新聞の被災者調査によると、5割以上が「2次避難」に応じるつもりはないと回答している。

 放射能の問題はないにしても、断水や停電や交通分断の続く地域で暮らしつづける人々の思いはいったいどんなふうなのだろう。

 その土地に仕事がある、という人が最も多いが、次いで多いのが家族の介護・子育てのため、という人々。なかには「残る人たちに申し訳ないから」残っているという人も結構いる。

 これは相当悩ましく、ユーウツな事態ではないだろうか。再び来るかもしれない大地震に怯[おび]えつつも、その土地や人々への愛着を断ち切れず、しかし今後のビジョンは描けない。

 この地の復興は相当に難しくデリケートに思える。どこでも皆そうだが、魅力と危険、あるいは魅力と不便さは、背中合わせになっている。今回の被災地でも絶景の海岸が津波に襲われ、多くの人々の手間を繋[つな]ぐ輪島塗などの伝統工芸が存続の危機に瀕[ひん]している。復興に際して東北の防潮堤などのように、強[きょう]靱[じん]さや安全、便利さだけを目指すわけにはいかず、危険や不便さも場合によっては覚悟の上で残さなくてはならない。危険と不便は承知でどんなコミュニティを構想するのか……。

 今回は構想を練る会議などは設けず、「ミニ霞ヶ関」と石川県庁との共働で対処するらしいが、今後の対応と復興の行方に注目したい。(玄侑宗久 僧侶・作家、三春町在住)

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