ミステリの女王、アガサ・クリスティー関連本が立て続けに出版 書評家・千街晶之のおすすめ3選は?

人呼んで「ミステリの女王」。あるいは「聖書とシェイクスピアに次いで読まれる作家」。

これらは、イギリスのミステリ作家、アガサ・クリスティーに捧げられた称号である。亡くなったのは1976年だからもう半世紀近く前だが、今でも彼女の作品は世界中で読まれ、繰り返し映像化されている(日本でも新訳が途切れることなく刊行されている状態だ)。読者の先入観を巧みに手玉に取るどんでん返し、人間心理の本質を掘り下げる筆致など、その作風の美点は古びることがない。

そんなクリスティーに関する研究書や評論が、2023年12月から2024年1月にかけて立て続けに刊行された。発売のタイミングが重なったこと自体はもちろんただの偶然だろうが、クリスティーの衰えぬ人気と、その作品や生涯の読み解きに興味がある読者の多さを物語っているのは間違いない。

ルーシー・ワースリー『アガサ・クリスティー とらえどころのないミステリの女王』(大友香奈子訳、原書房)

まず、ルーシー・ワースリー『アガサ・クリスティー とらえどころのないミステリの女王』(大友香奈子訳、原書房)から。クリスティーの評伝は既に何冊か存在しているけれども、これは最新版である。著者は歴史学者で、オックスフォードでは古代・現代史の学位を取得した……と紹介するとミステリとは縁がなさそうに見えるが、実は『イギリス風殺人事件の愉しみ方』(NTT出版)などの著者があり、幅広い興味と知識の持ち主のようだ。

著者はクリスティー自身や関係者の自伝・書簡などを精細に調査し、また作品のディテールを分析することで、これまで知られていなかったような事実にスポットライトを当ててみせる。一番の読みどころは、クリスティーが1926年に起こした、有名な失踪事件の解釈だ。この年、母を亡くし、夫の不倫にも苦しんでいたクリスティーは失踪してイギリス中を騒がすが、11日後に発見された彼女は医師により「記憶喪失」と診断された。この事件に関しては(本人が後年になっても具体的に語らなかったこともあって)曖昧なことも多く、そのため、夫に復讐するための謀略だったのではという説も出た。

しかし『アガサ・クリスティー とらえどころのないミステリの女王』では、そもそも当時の「記憶喪失」という用語が不正確なものであると主張し、追いつめられたクリスティーの同情すべき心の動きを手に取るように再現している。

また、クリスティーはビリー・ワイルダー監督の『情婦』を除く自作の映画化を気に入っていなかったというのが従来の定説だが、シドニー・ルメット監督の『オリエント急行殺人事件』のことも喜んだという証言も紹介されている。更に、さまざまなイメージを押しつけてくる大衆と、本当の自分を隠すため平凡な女性というパブリック・イメージを作り上げざるを得なかったクリスティーの相剋から、「とらえどころのないミステリの女王」の実像を浮かび上がらせる筆致の鋭さも大きな読みどころだ。今後、本書を読まずにクリスティーは語れないだろう。

大矢博子『クリスティを読む! ミステリの女王の名作入門講座』(東京創元社)

続いて、大矢博子『クリスティを読む! ミステリの女王の名作入門講座』(東京創元社)を紹介する(早川書房などの表記は「クリスティー」「ポアロ」、東京創元社の表記は「クリスティ」「ポワロ」なので、ここでだけは後者に従うことにする)。

近年の日本におけるクリスティ批評としては霜月蒼『アガサ・クリスティー完全攻略』(早川書房クリスティー文庫)が高く評価されているが、霜月が全作品レヴューというスタイルを選んだのに対し、大矢は「探偵で読む」「舞台と時代で読む」「人間関係で読む」「騙しのテクニックで読む」「読者をいかにミスリードするか」というテーマ別に代表作を数作ずつ選び、クリスティ作品の面白さや現代に通用する理由を掘り下げている。

クリスティといえば富豪の屋敷や田舎の村を好んで舞台に選んだイメージがあるが、そうした舞台の描き方にも時代の変遷(二度の世界大戦を経た大英帝国の没落、そこから生まれた新しい文化や生活など)が反映されている。そんな変遷を、ベルギーからの亡命者という設定のポワロは異邦人として、逆にミス・マープルは内部からの時代の証人として目撃してきたという対比や、『鏡は横にひび割れて』から伝わる「時代が変わっても人は変わらない」という真理など、クリスティ作品の本質が親しみやすい語り口で指摘されているのだ。コージー・ミステリに造詣が深い大矢の本領が発揮された一冊と言えよう。

書影などの写真が数多く掲載されているのも楽しく、中でもミス・マープル初登場短篇「〈火曜の夜〉クラブ」の初出誌に載ったマープルのイラストなどはあまり日本では知られていないのではないだろうか。

この本では作品のネタばらしは細心の注意で避けられているが、最終章「読者をいかにミスリードするか」では『シタフォードの謎』『殺人は容易だ』の2作品に絞って、真相を明かすかたちでクリスティ流のミステリ作法を分析している。読者の心理を自在に操る騙しのテクニックは、ミステリ作家志望者にとっても大いに参考になる筈だ。

カーラ・ヴァレンタイン『殺人は容易ではない アガサ・クリスティーの法科学』(久保美代子訳、化学同人)

紹介する3冊目は、カーラ・ヴァレンタイン『殺人は容易ではない アガサ・クリスティーの法科学』(久保美代子訳、化学同人)である。著者は解剖病理技師で、かなりのミステリファンでもあるようだ。

クリスティーは看護師や薬局勤務の経験があることから毒物の知識が豊富で、従って作中でも毒殺が多いが(デビュー作『スタイルズ荘の怪事件』からして毒殺事件だったし、『そして誰もいなくなった』の毒殺シーンなども印象深い)、この本は、毒物のみならず指紋、弾道、筆跡、血痕など8つのテーマを通して、クリスティー作品における法科学の扱い方を分析している。そこから浮かび上がるのは、犯罪捜査の最先端の知識を取り入れるのに貪欲なミステリ作家の姿だ。

例えば、作中における銃器の描かれ方は、『秘密機関』のような初期作品では不正確なところもあったが、後の作品ほど次第に専門的になってきている。また、クリスティーは生々しい流血の描写を嫌っていたというけれども、『マギンティ夫人は死んだ』ではその数年前に登場したルミノール反応について言及するなど、血液が犯罪捜査で果たす役割を常に重視し続けた。心理分析を武器とする名探偵のイメージが強いポアロやマープルが、鑑識キットを持参するなど意外と微細な物証も重視していたことを指摘するくだりには意表を衝かれた。

この本の面白さは、クリスティー作品の研究という本筋からちょっと脱線した部分にもある。作中で言及されたり、あるいは作品内容と関連していたりする現実の犯罪についての知識が大量に披露されているのだ。中には『オリエント急行の殺人』の元ネタとなったチャールズ・リンドバーグ・ジュニア誘拐殺人事件や、アル・カポネが敵対するギャングらを殺害させた「聖バレンタインデーの虐殺」などの有名犯罪もあるが、一般的な日本人にとっては聞いたこともないようなマイナー事件も多く、それらの中には、屋敷の女主人の歓心を買おうとした執事による自作自演の強盗事件など、ミステリ小説めいたトリッキーな犯罪もある。ピーター・ラヴゼイのミステリ小説『偽のデュー警部』でもお馴染みのクリッペン事件(医師のクリッペンが妻を殺害したとされる事件で、クリスティーの約15作品で言及されている)に関して、今世紀に入って判明した新事実には驚かされる。

なお、医学雑誌「BRAIN and NERVE」2023年12月号(医学書院)の特集は「アガサ・クリスティーと神経毒」であり、クリスティー作品で使われた14種類の毒物について専門家たちが寄稿している。そこからは、クリスティーの毒物に関する知識が、専門家の目からもかなり豊富かつ正確なものであることが伝わってくる。『殺人は容易ではない アガサ・クリスティーの法科学』と併せて読んでほしい。

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