【掛布雅之が解説】本塁打を量産できる条件とは?ランディ・バースが日本で飛躍的な活躍ができた理由

(※写真はイメージです/PIXTA)

右打者が有利といわれる甲子園球場で、ランディ・バースはクレバーにもハートフルにも戦った左打者です。優勝のカギを握った1人、ランディ・バースとはどのような人物だったのでしょうか。掛布雅之氏の著書『常勝タイガースへの道 阪神の伝統と未来』(PHP研究所)より、阪神が優勝を成し遂げた要因をみていきましょう。

阪神甲子園球場でホームランが出にくいワケ

阪神甲子園球場は2022年シーズン終了時点で、日本プロ野球の本拠地としては現存する最古の球場である。球場の設計に当たっては、MLBの当時のニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)の本拠地であった「ポロ・グラウンズ」をモデルに設計されたといわれている。その後、「ポロ・グラウンズ」はニューヨーク・ヤンキースやメッツのホームタウンとしても使用された。

甲子園球場の名前の由来は、完成予定の大正13年(1924年)が十干十二支の最初の組み合わせで縁起の良い甲子年であったからとのことである。1924年8月1日に竣工式が行われた。

甲子園球場の両翼は95メートル、センターからホームベースまでは118メートル。センターからホームベースまでを見れば、122メートルの東京ドームより4メートル短い。しかし、左中間、右中間はホームベースから118メートルあり、東京ドームの110メートルよりかなり広い球場である。

今の甲子園球場ではピッチャーを中心とした守る野球に徹して戦うしかない。広いから、阪神以外の球団でも甲子園ではホームランが出づらい。事実、甲子園のホームラン数は他球場に比べて少ない(図表)。投手を含めた守る力で勝っていく野球を岡田監督は考えていると思う。

【図表】プロ野球各球場のパークファクター(2022) 出所:『常勝タイガースへの道 阪神の伝統と未来』(PHP研究所)より抜粋 パークファクター(PF)とは?

球場は形状や大きさ、立地条件がそれぞれ異なることから、本塁打など各成績に偏りが出ることがある。平均的な球場に対して、球場ごとの成績の偏りを表す数値指標がパークファクターである。本拠地としている球団の成績には左右されない指標となっており、純粋に「平均的な球場(6球場の平均)に対して当該球場では本塁打を何倍打ちやすいか」を示している。

また、甲子園球場の代名詞ともいえるのが浜風である。

浜風とは、晴天時には陸上の気温が海上の気温よりいち早く高くなって、空気が上昇したスペースに、1キロほど先の瀬戸内海から吹きこんでくる海風のことだ。甲子園球場にはこの浜風がよく吹きこんでくる。

特に日中は浜風の影響を受けやすいといわれている。事実、高校野球の甲子園球場での歴代ホームラン通算記録は下記のようになっている。

【高校野球甲子園通算本塁打記録】

1位:清原和博(PL学園)/13本

2位:桑田真澄(PL学園)/6本、元木大介(上宮)/6本、中村奨成(広陵)/6本

いずれも右打者である。少なからず右打者のほうがホームランを打ちやすい球場なのであろう。

前置きが長くなってしまったが、私が共にプレーさせてもらった前提で、左の強打者の筆頭として挙げるとすればバースだろう。

ランディ・バースが日本で成功できた理由

バースはMLBのミネソタ・ツインズ、カンザスシティ・ロイヤルズ、モントリオール・エクスポズ、サンディエゴ・パドレス、テキサス・レンジャーズなどのチームを渡り歩いていた。長打力は評価されている一方で「ウォーニングトラック・フライボールヒッター」ともいわれていた。フェンス際まで打球を飛ばせる力はあるものの、オーバーフェンスには少し足りないバッターを揶揄する表現だ。

また、MLBの速球派投手に弱いという弱点もあった。NPB(日本野球機構)では、阪神以外にはヤクルト、阪急が獲得調査をしていたが、結果的に阪神が獲得することとなった。当時阪神ではレギュラーの左打者が私1人であり、左打者がもう1人いれば……ということだったのだろう。

阪急はそのときに右打者のブーマー・ウェルズを獲得したと当時の安藤統男監督(阪神)から聞いた。また、バース、ブーマー共にポジションが一塁手であり、守備位置が被っていた。どちらかが外野を守れていたなら、両方の選手を獲得したかったとも聞いた。また、バース獲得の大きな要因として、当時の編成担当から聞いたところによると、彼はマイナーリーグの2Aや3Aで4球を年間80前後選んでいて、打席で我慢できる選手という評価だった。そして、速球を打つのは苦手だが、変化球打ちが上手いという評価だった。

バースは1983年から88年まで在籍し、2度の3冠王を獲得、NPBシーズン最高打率の3割8分9厘(86年)を記録した。

バースに関して特筆すべきことは、日本文化に溶け込もうという強い意思を感じたことである。

阪神は83年、84年とハワイのマウイ島でキャンプを行っていた。そのキャンプの休日にゴルフをラウンドしたり、川藤幸三さんに将棋を教わって覚えるなどしてチームになじんでいった。チェスと同じだと思っていたが、全然違うので面食らったらしい。来日した際には、オクラホマの小さな町から来たバースは慌ただしく動く日本人に驚いたという。来日1年目は、電車で甲子園球場まで通い、球場のおばちゃんがつくってくれるラーメンを愛した。屋台のラーメンにもチャレンジしていた。また、いたずら好きで茶目っ気があった。

野球に関しては、甲子園球場の内野に芝生がないことに驚いたという。MLBのグラウンドは天然芝であることが多い。

そしてよくいわれることであるが、フルカウントで、ストレートではなく変化球を投げ込んでくる攻めに躊躇したという。また、明らかに外角に外れたボールなのに、外国人という理由でストライクゾーンが広くなり、審判にストライクコールされたことがあったという。そのため、1軍打撃コーチの並木輝男さんに相談し、並木さんの提案でセンターからレフトに打つ練習を徹底的に行った。

2023年1月、日本の野球殿堂に選ばれたバースが来日した際に、日本で成功できた理由を「1番大きかったのは並木打撃コーチの存在」と語っている。「コースに逆らわずセンターからレフトへ打つことを辛抱強く教えてくださいました。今の自分があるのは並木コーチのおかげ。レフトから左中間にホームランが出るようになり、タイトルを獲れるほどの打者に成長できた」と明らかにしている。

ランディ・バースのバットの秘密

彼のバットは、先が太くて、グリップが細い。バットの総重量は1キロ近くあった。グリップが細くて、バットのヘッドが太いということは、グリップを握ったときにはすごく重さを感じるはずだ。

ただ、彼は2ストライクを取られると、バットを少し短く持って確実にミートしてくる。また、夏場に疲れが溜たまってくると、33インチ半という短いバットを1本バットケースに入れて、自分が疲れていると感じると、短いバットを使っていた。

相手のバッテリーは、バットが変わったことには気づかない。そういうクレバーさに秀でた打者だった。過去の外国人選手の中には素晴らしい打者もいたが、バースほど日本の野球を分析し、対応して、打席に立ち続けた外国人選手を私は知らない。

また、相手投手が厳しい内角攻めをしてきても怒ることはなかった。相手投手に対して常に紳士的な対応をしていたのが印象的だ。

私も内角攻めをされても、怒りの感情を表すことはなかった。なぜなら、相手投手に怒りの感情をぶつけると、次の打席で投手はむきになって内角攻めを執拗にしてくるからだ。怒らなければ、投手も申し訳ないという気持ちになり、内角攻めをしてこなくなるものなのだ。バースが私の対応を見てそのような態度をとっていたかはわからないが……。

そして、試合中に相手投手からデッドボールをもらったとしても感情を露わにすることはなかった。助っ人外国人選手は、投手にぶつけられると激高するシーンも多く見られた時代である。

バースは静かな闘志を持った男だった。数多くの外国人選手と共にプレーをしてきたが、バースは助っ人というより仲間であり友人だった。

バースは人間的にも、周りに対する気配りというものが素晴らしい外国人選手だった。シーズンが終わると、必ず私のところに来て「ありがとう」といって帰っていく。

「あなたが4番にいてくれたから、俺は3冠王を獲れた。あなたが3番を打っていたら、全部タイトルを獲っていたかもしれない」ともいっていた。そういう、人に対する気配りもあったのだ。当時の安藤統男監督にも「来年も掛布の前を打たせてくれ」といって帰国していた。

バースに対して同じ左打者としてアドバイスをしたことはない。私のバッティングを見て「ああいうふうな左方向への打ち方をしなければ駄目だ」と思っていたようだ。「掛布のような打球方向を多く打っていかないと、ホームラン数は増えない」と浜風から感じたのではないだろうか。

MLBと比較して狭い日本の球場で、左方向に強い風が吹いているときには、軽く流しただけでレフトスタンドへの本塁打になるほどだった。

前述したように、バースはインコースの速いボールに対して比較的弱いと言われていたようだが、変化球を打つのがとても上手かった。85年の日本シリーズでも、第1戦の松沼博久投手、工藤公康投手から執拗にインハイを攻められるが、工藤投手のアウトコースのカーブをレフトスタンドに運ぶ値千金の本塁打を放った。

掛布雅之

プロ野球解説者・評論家

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