「世界のオザワ」はいかにして生まれたか 並外れた「突破力」と稀有壮大な心意気

指揮者の小澤征爾さんが2024年2月6日に亡くなった。長年、クラシック音楽の世界で国際的に大活躍し、高い評価を受けてきた。茶目っ気に富んだ、親しみやすい人柄でも知られ、多くのエピソードを残している。「世界のオザワ」はいかにして生まれたのか。本人や近親者らの証言から、そのいくつかを紹介しよう。

もしもあのピアノがなかったら

小澤さんは20代半ばで、日本人では初めて、ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝した。さらにカラヤン指揮者コンクールでも1位になるなど、若くして頭角を現した。いわば「音楽の神童」と思われがちだ。しかし、幼少時から周囲のだれもが認めるほど、音楽的に傑出していたわけではなかったようだ。

自伝的著書『おわらない音楽』(日本経済新聞出版社)によると、初めてピアノに触ったのは小学校4年生のころ。担任の女の先生が、講堂でピアノを弾いているのをじーっと見ていたら「触ってもいいよ」と隣に座らせてくれたのが、ピアノとの最初の出会いだったという。

当時、自宅にはアコーディオンがあり、兄たちが弾いていた。小澤さんも見よう見まねで演奏できたが、余りもピアノに興味を持つので、親が横浜の親戚からピアノを譲ってもらう算段をつけた。高級カメラのライカを売って代金を工面した。

ところが、東京・立川の家までピアノを運んでくるのが一苦労だった。いまのように専門の引っ越し業者がいない時代だ。二人の兄たちがリヤカーを引いて横浜まで行き、ピアノを載せた。約40キロの道のりを、農家に一晩預けたり、親戚の家に泊めてもらったりしながら3日がかりで運んだという。晴れて5年生の秋には「エリーゼのために」を学芸会で演奏することができた。結果的にこのピアノが「世界のマエストロ」の生みの親になる。

もしもラグビーやってなかったら

念願のピアノが届いて練習に励み、ピアニストをめざす。しかし、中学生のころ一家は小田原に転居。通っていた東京・世田谷の成城学園中学があまりにも自宅から遠いため、学校の近くに下宿することに。その家にはピアノがなかった。仕方なく、成城学園高校音楽室のピアノを借りて練習した。

実弟で、エッセイストでもある小澤幹雄さんの『やわらかな兄 征爾』(光文社刊)によると、この高校の音楽室は、寂しい林の中にポツンとある一軒家だった。毎晩まっ暗な林の中を通って音楽室にたどりつき、手さぐりで鍵をあけ、電気をつけてピアノの練習をして、終わるとまたピアノの鍵をかけ、電気を消して戸口に鍵をかけて帰ってくる。まだ中学生の小澤さんはそれがとてもいやで、怖かった。のちに、「ピアノのある家がほんとにうらやましかったよ」と語っていたという。

小澤さんはこのころ、ピアにストをめざすと同時にラグビーにも熱中していた。ところが、試合中に人さし指を骨折した。指が曲がってしまうほどの大けがだった。ピアニストはあきらめざるを得ない。先生の勧めもあって、指揮者の道に転じることになった。「NIKKEI STYLE」は、「ラグビーがなかったら『世界のオザワ』はいなかったかもしれない」と書いている。

「当たってくだけろ」の精神

10代半ばから20代前半の小澤さんは、厳しいレッスンに耐えながら、いわば背水の陣で指揮者をめざす。ところが、仏政府の留学試験に落ちてしまった。当時の小澤家の経済状態から、自費留学は不可能だった。

小澤さんが思いついたのは、スクーターによる海外進出だ。東京じゅうのスクーター会社を訪ね歩いて、なんとか富士重工からラビットスクーターを借りて貨物船に乗り込むことができた。2か月がかりで、貨物船が南仏マルセイユについたところで下船。スクーターでパリをめざした。

弟の幹雄さんは、「このあたりは、得意の『当たってくだけろ』精神だ」と小澤さんの並外れた突破力を評価する。そして、「どうみても天才型の人間の姿ではない」としつつ、「何事にもどこまでもあきらめないでがんばる。そのねばりだけは天才的である」と、若いころの兄を振り返っている。

「天才は独りぼっち」

やがて、海外コンクールで成功して帰国した小澤さんに、日本で「大事件」が起きる。「N響ボイコット事件」として語り継がれている。

演出家の浅利慶太さんが、自著『時の光の中で―劇団四季主宰者の戦後史』(文春文庫)で舞台裏を語っている。それによると、小澤さんは1962年、ニューヨーク・フィルの副指揮者に抜擢され、翌年NHK交響楽団の客演指揮者にも招かれる。

ところが、伝統を誇るN響の楽団員たちは「指揮に疑問が多い」と事務局に申し入れ、小澤さんをボイコットしたのだ。今では考えられない大事件だ。小澤さんは思い上がった若造なのか。それともN響が尊大なのか。浅利さんは小澤さんと親しく、この事件の収拾で奔走する。

中止が決まっていたN響公演の当日、浅利さんは小澤さんに燕尾服を着せて会場の東京文化会館に行かせた。もちろん楽団員は一人もいない。譜面台の前で立ち尽くす27歳の小澤さん。すでに有力な新聞社には取材を手配済みだった。カメラマンがシャッターを切る。夕刊各紙に「天才は独りぼっち」の記事。この日を境に世間の目もマスコミの論調も180度変わったという。浅利さんの「演出」が成功したのだ。

小澤さんは、最終的にNHKと和解したが、海外に活動の拠点を移す。そして「世界のオザワ」へと飛躍することになる。

父は「満州国協和会」の創立委員

小澤ファミリーには、個性派の著名人が多い。小澤さんの長女・征良さんはエッセイスト、長男の征悦さんは俳優。ミュージシャンの小沢健二さんは甥。健二さんの父で小澤さんの兄の小澤俊夫さんは筑波大学名誉教授でドイツ文学者、口承文芸学者として知られ、多数の著書がある。弟の小澤幹雄さんは俳優兼エッセイスト。

その原点となる人物が小澤さんの父、小澤開作さんだ。戦前は歯医者だった。しかし、ただの歯医者ではなかった。『おわらない音楽』によると、1931年の満州事変をきっかけに政治にのめり込んだ。政治団体「満州国協和会」の創立委員になって奉天に移り住む。

「共産主義のソ連の脅威に立ち向かうには、アジアの民族が一つにならなければならない」

という信念を持ち、関東軍作戦参謀の石原莞爾や板垣征四郎らと親しく交わる。小澤さんの「征爾」という名前は、この二人の名前から借用したというのは有名な話だ。

さらに父は新しい政治団体「新民会」を立ち上げ、北京に引っ越す。旧市街・胡同の屋敷に住み、お手伝いさんは中国人の一家だった。

雑誌は何度も発禁処分

父親は官僚政治や権威主義を嫌っていた。中国を蔑視する政治家や軍人が増えるにつれ、激しく批判するようになる。1940年に言論雑誌「華北評論」を創刊したが、「この戦争は負ける。民衆を敵に回して勝てるはずがない」とおおっぴらに主張し、軍部に目をつけられる。雑誌は何度も発禁処分になった。父親が信念の人で、時流に流されない、「独立不羈(ふき)」の精神の持ち主だったことがうかがえる。

やがて征爾さんら母子は先に日本に帰され、追って父も帰国する。軍需省の顧問になり、満州時代の仲間とひそかに対中和平工作を進めていたが、実らなかった。そして敗戦。

父は言った。

「日本人は日清戦争以来、勝ってばかりで涙を知らない冷酷な国民になってしまった。だから今ここで負けて涙を知るのはいいことなのだ。これからは、お前たちは好きなことをやれ」

こうして小澤さんの「好きなこと」にのめり込む新しい人生が始まる。ベースになったのは、父親譲りの稀有壮大な心意気だ。「中国に生まれ、日本に育った僕がどこまで西洋音楽を理解できるか。一生かけて実験を続けるつもりだ」と、著書『おわらない音楽』で語っていた。

「みんなが空気を読んだらどうなるか」

小澤さんは、父のように、特に「政治」には関与はしていない。しかし小澤さんの兄でドイツ文学者、昔話の研究者と知られた小澤俊夫・筑波大名誉教授は、少々違う。秘密保護法、安保法制、共謀罪などが問題になったときは、しばしば自身のブログやインタビュー取材で、危惧する発言を続けている。

著書『日本を見つめる』(小澤昔ばなし研究所)の小見出しは、「マスコミの報道がおかしすぎる」「『改憲まっしぐら』をいかにしてくいとめるか」「政治家の質の低下と無責任」「権力者はすべてを隠す」「みんなが空気を読んだらどうなるか」などが並ぶ。

その中の一つ、「過去の記憶を残そうとするドイツ、消そうとする日本」という一文はこんな感じだ。

「ドイツが国内のあちこちで強制収容所を保存・公開し、ホロコースト警告記念石碑群を首都ベルリンの中心部の広場に並べて過去の罪を反省し、反省の証しとして世界に示しているのに比べて、日本政府が必死になって保存し、首相や閣僚が参拝してその存在を世界に示そうとしているのは、なんと靖国神社である。靖国神社が、天皇崇拝と結びついて、日本の軍国主義の中心装置であったことは世界に知られている。そればかりか、東京裁判でA級戦犯として処刑された戦争責任者たちが合祀されていることも知られている」
「これらの事実を冷静に見れば、世界が日本を見る目と、ドイツを見る目がまったく違うことは明らかであろう」

クラシック音楽の本場は独やオーストリアだ。小澤さんは現地で、兄の憂慮と父親譲りの心意気を反芻することがあったかもしれない。

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