中東カタール開催の女子テニス大会で見られた「進化しつつある女性たちの権利」<SMASH>

スポーツを通じ、いかに男女同権を実現していくか――。

それは1973年に、時の女子テニストップ選手のビリー・ジーン・キングが中心となって「WTA」(女子テニス協会)を発足して以来、一貫してきた理念だ。

それから50余年が経ち、女性スポーツを取り巻く環境も大きく変わった。ただその中でもイスラム文化圏は、最後まで壁が立ちはだかる地域かもしれない。

イスラム文化圏という言い方はあまりに乱暴で、その内実は国や地域によって様々だ。最も女権の制約が多いと言われるサウジアラビアでは、女性の自動車運転が認められたのは、2018年6月のこと。同性愛は未だ犯罪と見なされているため、WTAがサウジアラビアで大会を開くか否かには、数年前から大きな議論となってきた。

現在、行なわれている「カタール・オープン」の開催地カタールは、ペルシャ湾に突き出す小さな半島の国家である。国土面積は秋田県より少し大きい程度だが、石油・天然ガスのため経済的には豊か。22年のサッカーワールドカップ開催により、世界中にその名を改めて知らしめた感が強い。

女性のスポーツ参画ということで言えば、カタールは12年のロンドンオリンピック・パラリンピックを控えた時点で、「女性選手代表が参加したことのない、世界に3つしかない国の一つ」であった。ロンドンオリンピックで初めて、水泳、陸上、卓球、そして射撃の4競技に一人ずつ、女子アスリートが参戦した。
カタールで女性のスポーツ国際大会が初めて開催されたのが、1998年の陸上競技会。それが、女性が観戦を許された初のスポーツイベントだと言われている。

WTAの「カタール・オープン」が開催されたのは、その3年後の2001年。初代優勝者は、マルチナ・ヒンギスである。その後、年を重ねるごとに大会のグレードも上がり、今年はグランドスラム(四大大会)に次ぐカテゴリー「WTA1000」としての開催だ。

大会会場を歩いていると、ヒジャブ(頭や身体を覆う布)をまとった人々の姿を目にはするが、他国のテニスイベントとほとんど変わらぬ光景が広がっている。大会運営スタッフにも女性は多く、会場内のショップやフードコートでも、働く女性の姿は多い。アラブ系女性のシンボル的存在であるオンス・ジャバー(世界6位/チュニジア)の参戦も、大会に象徴的な彩りを加えているだろう。
アラブ系女性として初の「WTA1000優勝」、「グランドスラム決勝進出」、「世界単トップ10」など多くのバリアを打ち破ってきたパイオニアのジャバーは、中東の大会で感じてきた変化を、次のように語る。

「とても大きな進化を見ることができる。間違いなく女性の観客が増えている。それに、私が大切だと思うことは、テニスに限らず、女性が何でもできるようになること。どんなスポーツでもしてほしいし、成功してほしいと思っている。ビジネスウーマンでも、医者でも……」

そこまで言うとジャバーは、記者席に手を向けて、「それに、ジャーナリストでもね!」と笑った。

「何より重要なのは、夢を抱けること。実際に多くの若い女性たちが、そういう話を私にしてくれるようになった。それが本当にうれしいし。でもまだ十分ではないし、やるべきことはある。そのためにも私は、力強いメッセージを送り続けたいと思っている」

昨年9月の全米オープン単を制した19歳のココ・ガウフも、「マイノリティ代表」としての看板を背負い、世界にメッセージを送ることを恐れない一人だ。
「カタール・オープン」では、ダブルスで2連覇中。世界ランク単3位、複7位のアフリカ系アメリカ人は、「ここでプレーすると、ファンとのつながりを感じる」と言った。

「マイノリティと呼ばれる人たちは、人種やバックグラウンドのために、様々な困難を抱えている。世界の人々が『違い』を受容し、がつながり、あるがままの自分でいられるようになれれば良いなと思っている。ここのように、マイノリティが多い地域に来ると、より強いつながりを感じることができる。会場を歩いていても、それは感じる。みんなが温かく迎えてくれるから、ここでプレーするのはワクワクする」

大会会場でボランティアとして働く女性スタッフの話によれば、カタールではテニスとスカッシュが、女性の間で人気の高いスポーツだという。会場のフードコートなどでは、初めて顔を合わせたという女性たちも、楽しそうに談笑していた。また大会は連日、9歳から14歳の子どもたちを会場に招き、トップ選手との質疑応答や交流の場を設けている。

スポーツをテコに、世界を変える――。もちろん、少しずつではある。ごく一部のコミュニティでのできごとでもあるだろう。それでも変化は、着実に起きている。

現地取材・文●内田暁

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