『リンカーン』歓喜のベル、祝福の光

『リンカーン』あらすじ

南北戦争中のアメリカ。国を二分した戦いは4年も続き、戦況は北軍に傾きつつあった。任期2期目を迎えた大統領エイブラハム・リンカーンは、奴隷制度の撤廃を定めた合衆国憲法修正第13条の成立を目指していたが、反発の声も多く、苦境に立たされていた。そんな中、リンカーンの長男が母親の反対を押し切って北軍に入隊し、妻メアリーとの関係も悪化してしまう。多くの苦労を抱えながらも、リンカーンは合衆国憲法修正第13条成立のためにあらゆる手を尽くすのだった。

“対話”と“駆け引き”


映画『リンカーン』(12)は、冒頭から南軍と北軍の血生臭い戦闘が描かれる。激しい雨の降りしきるなか、銃剣で心臓を突き刺し、泥の中に顔をうずめる。南北戦争で最も戦死者を出した戦闘の1つ、ジェンキンスフェリーの戦いだ。

だがスティーヴン・スピルバーグは、オマハ・ビーチでの地獄絵図を延々とスクリーンに焼き付けた『プライベート・ライアン』(98)とは異なり、すぐにカットを切り替える。映し出されるのは、「月給が白人兵より3ドル少ない」、「黒人の士官がいない」という黒人兵の訴えに耳を傾ける、エイブラハム・リンカーン大統領(ダニエル・デイ=ルイス)の姿。やがて彼の元には白人兵たちも集まり、ゲティスバーグ演説に感銘を受けたことを興奮気味に伝える。わずか開巻数分で、この映画が“戦い”の映画ではなく、“対話”の映画であることをスピルバーグは鮮やかに描き出す。

そして本作は、“駆け引き”の映画でもある。そもそも南北戦争は、奴隷制度を巡る対立から始まった(自由貿易を主張する南部と、保護貿易を主張する北部との対立などもあった)。綿花など農業中心の南部において、黒人の労働力を確保するために奴隷制は不可欠。一方北部では工業化が進み、奴隷制に反対の立場をとっていた。リンカーンは1862年に奴隷解放宣言をしたものの、実質的な効果は極めて限定的。真の奴隷制廃止を実現させるためには、憲法修正案第13条を可決させることが必須条件なのだ。

『リンカーン』(c)Photofest / Getty Images

だが、大きな問題があった。南北戦争は終結に向かっており、北軍の勝利は目前。憲法修正第13条の可決よりも前に南軍と和平条約を結んでしまうと、「黒人解放には懐疑的だが、戦争終結のためには奴隷制の廃止が必要」と考えていた人々も、再び奴隷制存置へと意見を変えてしまう恐れがある。すでに、内戦の即時停止に向けた提案書を携えて、南軍の使節団がワシントンに向かっていた。彼らが到着する前に、リンカーンは13条を可決させる必要がある。下院での可決が先か、使節団の到着が先か。ここには、ある種のタイムリミット・サスペンスが発動している。

他にも問題がある。リンカーンが所属する共和党員が全員13条に賛成票を投じたとしても、可決には2/3の賛成が必要で、あと20票足りない。敵対する民主党から、20人の賛成票を取り込まなければならないのだ。だがリンカーンには秘策があった。前回の選挙で、民主党は64議席を減らしている。職を失った彼らにそれ相応の役職を約束すれば、“都合のいい投票”をしてくれるはずだ、と。

彼はスワード国務長官(デヴィッド・ストラザーン)を通じて、秘密裏にロビイストに接触。民主党の切り崩しを行う。『リンカーン』は、全編にわたって政治工作を描く、“対話”と“駆け引き”の物語なのである。

現実主義者にして、葛藤する父親


深慮遠謀な策士、リンカーン。この映画で描かれるのは、理想に燃える大統領ではなく、権謀術数を弄するリアリストの姿だ。むしろ理想主義者という言葉は、トミー・リー・ジョーンズ演じるスティーブンス共和党議員にこそふさわしい。共和党急進派指導者の一人である彼は、人種差別を激しく憎悪する平等主義者。南部への譲歩には徹底的に反対の立場を貫き、同じ志を抱くリンカーンにも「のろま」と悪態をつく。二人がサシで対面する場面では、こんなセリフをぶつけている。

「戦争が終わったら、俺は黒人の完全な平等を目指す。投票権だけじゃない。議会命令で反逆者の土地や財産をすべて差し押さえる。彼らの富で何十万人もの黒人の生活を安定させ、武装した兵を動員して反逆者どもの文化をたたき潰す」

だがリンカーンは、「意見の違う人民をまとめるには慎重に」と釘を指す。そこには、自由な世界を築かんとする理想家と、現実主義者の対立がある。古典的なハリウッド映画にならうならば、本来はスティーブンスを主人公に据えるべきだろう。だがスピルバーグは、現実的な課題に対処するためには妥協もいとわない男を主軸に、憲法修正案第13条の下院可決という、あまりにも地味すぎる主題を選択した。そこに筆者は、スティーヴン・スピルバーグの並々ならぬ覚悟と、映画作家としての成熟を感じてしまう。

『リンカーン』(c)Photofest / Getty Images

またリンカーンは、反対を押し切って兵役に就こうとする長男ロバート(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)と、息子を戦争で失いたくない妻メアリー・トッド(サリー・フィールド)との間で揺れ動く、悩める父であり夫でもある。奴隷制廃止に奔走するメインプロットと並走させながら、スピルバーグは一人の男の葛藤をサブプロットとして描出する。

筆者がふと思い出したのは、H・G・ウェルズの古典SF小説をスピルバーグが映画化した『宇宙戦争』(05)。この作品でも、2人の子供を連れてトライポッドの攻撃から逃げ回るレイ(トム・クルーズ)が、米軍と共に戦いたいと訴える息子ロビー(ジャスティン・チャットウィン)の想いを受け止めきれずにいた。

スピルバーグはある時期から(おそらく、長らく疎遠だった実父アーノルドと和解を果たしてから)、父親の葛藤を直裁に語るようになった。それは、高度な政治的駆け引きを繰り広げる現実主義者リンカーンであっても、同様なのである。

執筆に6年を費やした脚本


スティーヴン・スピルバーグは、並外れたワーカホリックであると同時に、尋常ならざるスピードでプロジェクトを遂行してしまうアジリティの持ち主でもある。『ジュラシック・パーク』(93)と『シンドラーのリスト』(93)を同時並行で製作したことは今や語り草だが、『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』(17)に至っては、企画の立ち上げから劇場上映までに1年も要していない。しかも彼は、『レディ・プレイヤー1』(18)のポスト・プロダクション作業をやりつつ、この社会派映画を創り上げたのだ。GOサインが出れば、光の速さで完パケしてしまう。

その一方で、長い年月をかけて一本の作品を仕上げる場合もある。例えば『タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密』(11)。最初に原作漫画と出会った1981年から、やっと公開に漕ぎ着けた2011年まで、30年という時間を要している。『リンカーン』もこの系譜に連なる作品だろう。スピルバーグはこの映画に、10年以上もの歳月を費やした。

2001年にプロジェクトが立ち上げられると、『グラディエーター』(00)や『アビエイター』(04)で知られるジョン・ローガンが脚本を執筆し、さらに劇作家のポール・ウェブが雇われて修正作業を行った。歴史家のドリス・カーンズ・グッドウィンによって、「Team of Rivals: The Political Genius of Abraham Lincoln(チーム・オブ・ライバルズ: エイブラハム・リンカーンの政治的天才)」という書籍が出版されると、今度は『ミュンヘン』(05)でスピルバーグと仕事をしたトニー・クシュナーが起用される。

『リンカーン』(c)Photofest / Getty Images

彼は執筆に6年を費やした。それだけクシュナーは迷いに迷いながら、リンカーンの物語を紡いでいったのだろう。曰く、「ウィリアム・シェイクスピアがどうやって「ハムレット」を書いたのか、モーツァルトがどうやって「コジ・ファン・トゥッテ」を書いたのか分からないのと同じ意味で、リンカーンがどうやったのか分からなかった」。それでも彼は、どうにかこうにか550ページにも及ぶシナリオを書き上げる。

当初スピルバーグは、リンカーン大統領の目を通して南北戦争を語ろうと考えていた。彼の最後の3年間を描く伝記映画として作る予定だった。だがクシュナーの脚本を一読して、奴隷制の廃止に物語の焦点を当てることが最良の選択であることを確信する。

「脚本は550ページにも及んでいた。私にとって最も説得力があったのは、奴隷制を廃止する修正第13条を成立させるための闘争を描いた、65ページぶんのパートだった。(中略)私は立ち上がって、“これだ!これが私たちの物語だ、これが私たちの映画だ!”と言ったんだ」(*1)

シンドラーのリスト』や『プライベート・ライアン』がほぼ屋外で撮影された作品だったのに対し、『リンカーン』は基本的に屋内で描かれる、異例の“密室映画”。あえてスピルバーグは非アクション映画に舵を切った。

光に包まれる


時間がかかったもうひとつの理由は、エイブラハム・リンカーンを演じたダニエル・デイ=ルイスにある。彼の起用はスピルバーグたっての希望だったが、そのオファーは丁寧に断わられていた。彼はスピルバーグに、こんな手紙を送っている。

「親愛なるスティーヴン。あなたと一緒に座って話すことができて、本当に嬉しかった。説得力のある歴史について、あなたが語ったことを注意深く聞き、その後脚本を読みましたが、記念碑的な出来事が詳細に描かれ、すべての主要人物を慈愛に満ちた描写で描いており、力強く感動的でした。(中略)だが、それは参加者としてではなく、物語を見たいと切望する観客としてだった。(中略)スティーヴン、これで分かってもらえただろうか?あなたが映画を作ることを嬉しく思う。そのために力を尽くして欲しいし、私のことを考慮してくれたことに心から感謝し、心から祝福を送りたい」(*2)

一時期は、『シンドラーのリスト』(93)でオスカー・シンドラー役を演じたリーアム・ニーソンがリンカーン役に決まったものの、結局彼も降板。第一候補のダニエル・デイ=ルイスが出演しないなら、このプロジェクト自体も立ち消えになる…そんな矢先、救世主として現れたのがレオナルド・ディカプリオだった。スピルバーグは語る。

「私の親友レオナルド・ディカプリオが、ある日彼に電話をかけて、“考え直したほうがいい”と言ってくれたんだ。“スティーヴンはどうしても君に出演してほしくて、君なしで映画を作る気はないんだ”と。レオからの電話を受けて、ダニエルは読んだことのないトニー・クシュナーの脚本と、読んだことのないドリス・カーンズ・グッドウィンの本を読みたいと申し出てくれた」(*3)

『リンカーン』(c)Photofest / Getty Images

熟考のすえ、ダニエル・デイ=ルイスはリンカーンを演じることを決意。役のリサーチのため、撮影開始まで1年待って欲しいと申し出た。かくして、『マイ・レフトフット』(89) 、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(07)でアカデミー賞主演男優賞に輝いた名優が、ついにスピルバーグ映画に参加。『リンカーン』の演技で、彼は3度目の主演男優賞を受賞することになる。

もちろん彼の演技が素晴らしいのは言わずもがなだが、筆者が感嘆したのは、静かに佇むリンカーンの姿を、スタティックな構図で捉える名撮影監督ヤヌス・カミンスキーのカメラ。憲法修正案第13条が可決されると、歓喜のベルが鳴り響き、カーテンから差し込む光にリンカーンが包まれる姿は、あまりにも美しい。

思い返せば『未知との遭遇』(77)においても、主人公のロイ・ニアリー(リチャード・ドレイファス)は眩い光のなか宇宙船へと歩みを進めていった。スピルバーグ映画において、歓喜の瞬間とは光に包まれることと同義なのである。

(*1)、(*3)https://deadline.com/2012/12/steven-spielberg-lincoln-making-of-interview-exclusive-383861/

(*2)https://www.imdb.com/title/tt0443272/trivia/?ref_=tt_trv_trv

文:竹島ルイ

映画・音楽・TVを主戦場とする、ポップカルチャー系ライター。WEBマガジン「POP MASTER」(http://popmaster.jp/)主宰。

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