【統合思考経営25】ISSBはシングル・マテリアリティ(後編1)~株主資本主義とステークホルダー資本主義の間で~

なぜ今、『統合思考経営』なのか?
~ESGを踏まえた長期にわたる価値創造のために~
第25回

SBJ Lab Senior Practitioner of Integrated Thinking
サンメッセ総合研究所(Sinc)所長/首席研究員 川村雅彦

前回(第24回)は「中編」として、ISSBのIFRS S1基準の狙いを踏まえて、資本と価値、ダブル・マテリアリティとシングル・マテリアリティの関係を考察しました。今回は「後編1」として、持続的な 価値創造の観点から、「株主資本主義」と「ステークホルダー資本主義」の関係について考えます。

生煮えの「ステークホルダー資本主義」

■「ステークホルダー資本主義」の登場と頓挫

2019年8月、米国の経営者団体ビジネス・ラウンドテーブルが、「株主至上主義」を脱して「ステークホルダー資本主義」への転換を宣言しました。短期的な利益追求による格差拡大などを背景に、『企業の目的に関する声明』で、株主だけでなく顧客や従業員、取引先、地域社会などのステークホルダーの利益を尊重した事業運営に取り組む、と明言したのです。

翌年1月に開催された世界経済フォーラムの年次総会(ダボス会議)のテーマは、「ステークホルダーがつくる、持続可能で結束した世界」であり、会長のクラウス・シュワブは「ステークホルダー資本主義の概念に具体的な意味を持たせたい」と語っています。改訂された『ダボス・マニフェスト2020』では、企業は、顧客、従業員、地域社会、さらに地球環境や将来世代、そして株主など、「あらゆるステークホルダーの役に立つべきであること」が強調されました。

しかし、このようにステークホルダー資本主義の機運が高まっていた矢先、2020年2月頃から全世界がコロナ禍に見舞われ、2022年2月にロシアのウクライナ侵攻が始まりました。さらに悪いことに、2023年10月には中東でハマスとイスラエルの戦闘が始まりました。

これは何を意味するのか。2015年のSDGsの採択とパリ協定の締結によって、世界は21世紀の“ありたい姿”を確認したにもかかわらず、現実は真逆の状態に陥り、足元の問題を優先せざるを得なくなったのです。その結果、サステナブルな地球社会の実現をめざす「ステークホルダー資本主義」の議論と実践は頓挫し生煮えになった、と言わざるを得ません。

■「株主至上資本主義」と「ステークホルダー資本主義」は対立概念か?

ステークホルダー資本主義は生煮えとはいえ、その概念は「企業は株主のためだけにあるのではなく、さまざまなステークホルダーの利益にも配慮しなければならない」と明快です。一方、株主資本主義は「企業は株主利益の最大化だけに専念すべきである」と主張しています。ただ、ステークホルダー資本主義でも株主は歴然と存在しますので、ここでは「株主至上資本主義」と呼ぶことにします。

一見、株主至上資本主義とステークホルダー資本主義は対立しているように見えますが、株主価値に着目して株式会社の最終目標を冷静に見極めると、実は「両者は対立概念ではない」という考え方があります。いかがでしょうか。

■ステークホルダー資本主義は「情けは他人の為ならず」?

ここで有名な2人を取り上げます。1人は、ノーベル経済学賞を受賞した米国の経済学者ミルトン・フリードマン。彼は1970年にニューヨーク・タイムスへの寄稿で、株主至上資本主義の立場から「企業の社会的責任は、利益を拡大し納税すること。……企業は、株主の利益を最大化すること以外に何ら責任を有していない。政府は税金を適切に使えばよい」と述べています。

これに対比されるのが、ヒューレット・パッカードのCEOであったカーリー・フィオリーナ。彼女は2003年に行ったBSR(社会的責任のためのビジネス)の年次総会における講演で、「私たちはフリードマンを超えようとしている。……企業が事業を行う社会に対して、何ら責任を有しないという考え方は近視眼的である。長期的に見れば、決して持続可能なビジネスとは言えない」と訴えました。

この2人の考え方には短期か長期かの違いはあるものの、「株主利益の最大化」という目標からは逸脱していない、と言うこともできます。その意味では、株主至上資本主義とステークホルダー資本主義は対立概念ではなく、“単にアプローチの違い”ということになりかねません。しかし、果たしてそうでしょうか?

■ステークホルダー価値に依存する企業価値と株主価値

両者の最大の違いは、企業の事業遂行においてステークホルダーを通じたサステナビリティ課題を実感し、それを自らの価値創造のために経営課題として取り込むかどうかです。長期の経営戦略的な表現をすれば、バリューチェーンにおける気候変動やエネルギー・資源問題、生態系の劣化・喪失、あるいは人権問題や人的資本など経営環境の構造変化に対して、“経営能力”の向上を担保できるかどうかです。

このように考えると、やはり、持続的な企業価値(その結果として株主価値)はステークホルダー価値に依存する、と明確に理解できます。このことは、シングル・マテリアリティとダブル・マテリアリティの関係と同じです。つまり、資本市場において「企業が環境・社会から“受ける”インパクト」「企業が環境・社会に“与える”インパクト」の密接不可分性と同じです。

株主の背後にいるのは誰か?

■ステークホルダー資本主義を唱導するラリー・フィンク

前項でステークホルダー資本主義の展開に影響を与えた人物として、フリードマンとフィオリーナを取り上げましたが、もう1人、外してはならない金融界の現役経営者がいます。それは、世界最大の投資運用会社である米国ブラックロック(運用残高1500兆円)の会長兼CEOのラリー・フィンクです。

フィンクは日本では必ずしもそのように理解されていませんが、資本市場でステークホルダー資本主義を信念をもって唱導・実践している人物です。筆者の認識する人物像は、以下のとおりです。

・「資本主義の力」を信じる資本主義者である。ただし、株主・投資家のためだけではなく、投資先企業にかかわる人々(従業員や生活者など)の支援も考える。
・ステークホルダーを視野に入れたサステナビリティの唱導者である。世界的課題の解決をめざす長期視点のサステナブル投資家であり、企業の長期的な成功につなげる。
・サステナビリティに重点を置くのは、環境主義者や社会運動家の立場ではなく、年金基金の運用受託者ゆえある。その背後にいる年金加入者(長期資金の出し手=真の株主)を見ている。

(参考)フィンクが資本市場関係者や左右両派からさまざまな批判を受けてきたのも事実である。米国では近年ESG投資が“政治問題化”したことから、昨年6月には「もはやESGという言葉は使わない」と述べている。

■ラリー・フィンクの「ステークホルダー資本主義」の考え方

フィンクが2022年1月に投資先企業のCEOに宛てた公開書簡『資本主義の力』から、筆者の理解に基づき、ステークホルダー資本主義に関する彼の考え方を紹介します。

ラリー・フィンク『2022年 CEOsへの手紙: 資本主義の力  全文
https://www.blackrock.com/corporate/investor-relations/larry-fink-ceo-letter (英語版)
https://www.blackrock.com/jp/individual/ja/about-us/ceo-letter/archives/2022 (日本語版)

(1)ステークホルダー資本主義の考え方
・多くの企業経営者から学んだことは、明確なパーパスと確固たる価値観の大切さ。より重要なことは、経営者が主要ステークホルダーのため重責を認識していること。これがステークホルダー資本主義の基盤である。
・ステークホルダー資本主義は政治でもなく、イデオロギー的なWoke(社会的に目覚めている)でもない。企業が依存するステークホルダーに利益をもたらす関係構築で実現する資本主義である。
・グローバルにつながる現代では、株主に長期価値をもたらすには、企業はステークホルダー価値を創造し、評されねばならない。これにより資本の効率的配分と企業の持続的収益力が達成される。

(2)資本主義の力
資本主義には、社会を形づくり、変化の強力な「触媒」となる力がある。直面する厄介な世界的課題のいくつかを解決できる能力があると信じる。
・「触媒」となるには、変革によって負の影響を受ける地域社会の支援、新興国への資本投下の促進、そして世界経済のサステナビリティに不可欠なイノベーションとテクノロジーへの投資が必要である。

(3)資本主義とサステナビリティ(ゼロネット社会への移行)
気候リスクは投資リスクである。脱炭素化に向けた意欲的な目標設定と移行計画は始まったばかりだが、サステナブル投資の地殻変動的な資本の再配分は加速している。
・ネットゼロ社会への移行(特に、エネルギー・トランジション)は、これまでにない投資機会となり、長期にわたる膨大な雇用機会を創出する。適応できない企業は取り残される。

(4)受託者としてサスティナビリティ(移行計画)を重視
・サステナビリティ重視のアプローチとして、投資先企業には脱炭素化の「移行計画」を求める。「将来への適応力」を把握するには不可欠であり、そのためにもTCFD準拠の情報開示を要請する。
・ダイベストメント(特定セクターからの資本引き上げ、炭素集約度の高い資産を上場企業から排除)だけでは、ネットゼロ社会は実現できない。よって、ダイベストメント方針はとらない。

(5)ESGの議決権行使で、株主に力を与える
・運用受託者として企業に求めるのは、長期的な「株主に対する責任」として、どのようなESG(サステナビリティ)方針を定め、どのように事業展開するかを明示することである。
・その適否判断に基づき、株主は議決権を行使する。個人投資家を含むあらゆる投資家が、議決権行使のプロセスに参加する選択肢を持つことをめざす。

(注)ブラックロックは、2021年のエクソンモービルの株主総会で、他の主要機関投資家とともに、小規模ファンドの推薦する環境派取締役3人の就任に賛成票を投じた。その結果、過半数の得票で可決した。画期的であった。

(6)ステークホルダー資本主義センター」の設立
・企業が社会における自身の役割について熟考し、従業員、顧客、サプライヤー、地域社会、そして株主の利益に資するように行動することで、企業の持続的な成功につながると確信する。
・企業とステークホルダーとの関係が、長期的な企業業績と株主価値にどのような影響を及ぼすのか、なお研究すべき点がある。共有の場として、「ステークホルダー資本主義センター」を設立した。

(7)パーパスは羅針盤
・パーパス(企業の存在目的)とは、激動する経営環境の“大海”における「羅針盤」である。それをステークホルダーとの関係の基盤と位置付けることが、企業の長期的な成功の鍵となる。
・企業がパーパスに真摯(しんし)に向き合い、長期視点から激動する世界に適応できれば、その成功を通じて株主に持続的なリターンを届け、ステークホルダーに「資本主義の力」をもたらすことができる。

次回は後編2として、ブラックロックの提唱する「ダブル・ボトムライン」を踏まえつつ、「インベストメント・ループ」について考察します。

(つづく)

本コラムのフルレポートは、サンメッセ総合研究所(Sinc)の下記サイトを参照ください。
https://www.sri-sinc.jp/knowledge/2024020901.html

【統合思考経営23】ISSBはシングル・マテリアリティ(前編)~株主資本主義とステークホルダー資本主義の間で~
【統合思考経営24】ISSBはシングル・マテリアリティ(中編)~株主資本主義とステークホルダー資本主義の間で~

川村 雅彦(かわむら・まさひこ)
SBJ Lab Senior Practitioner of Integrated Thinking
サンメッセ総合研究所(Sinc) 所長/首席研究員
前ニッセイ基礎研究所上席研究員・ESG研究室長。1976年、大学院工学研究科(修士課程:土木)修了。同年、三井海洋開発株式会社入社。中東・東南アジアにて海底石油プラントエンジニアリングのプロジェクト・マネジメントに従事。1988年、株式会社ニッセイ基礎研究所入社。専門は環境経営、CSR/ESG経営、環境ビジネス、統合思考・報告、気候変動適応など。論文・講演・第三者意見など多数。
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