尖閣問題からわかる海上保安庁が領海警備をすることのメリット

海上保安庁の名前が国民に周知した要因の一つに尖閣諸島があります。領土問題のように、国家の主権が真っ向からぶつかり合う国家間の争いは、ナショナリズムに火がつきやすく、大きな紛争にもつながるおそれがありますが、元海上保安庁長官・奥島高弘氏によると、事態をエスカレートさせていないのは法執行機関である海上保安庁が対応しているからとのことです。

※本記事は、奥島高弘:著『知られざる海上保安庁 -安全保障最前線-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

領有権を脅かす存在が来航している現状

近年の海上保安庁の役割や評価は、以前とは比べものにならないほど高まってきました。海上保安庁の予算も、これまでとは文字通り“桁違い”のペースで増額されていくことが決定しています。その大きな要因として、いわゆる尖閣問題があることは言うまでもありません。

今さら説明は不要かもしれませんが、尖閣諸島とは、沖縄県石垣市に所在する、魚釣島、北小島、南小島、久場島、大正島、沖ノ北岩、沖ノ南岩、飛瀬などから構成される島々の総称です。

尖閣諸島に関する政府の公式見解は「歴史的にも国際法上も我が国固有の領土であり、日本は現にこれを有効支配している。解決しなければならない領有権の問題はない」というものです。

一方、中国や台湾は尖閣の領有権を主張しています。特に中国の海警局(沿岸警備隊)の船が、ほぼ毎日尖閣に来航し、領海侵入や日本漁船の追尾を繰り返しているのは皆さんもよくご存じの通りです。しかも年々、その活動を活発化させています。

すなわち、解決しなければならない領有権の問題は“ない”としても、領有権を脅かす存在がほぼ毎日来航し、それに対処しなければならないという問題は、現実に存在しているわけです。

この問題に対応しているのは、軍事機関とも評価される自衛隊ではなく、非軍事の法執行機関である海上保安庁です。海上保安庁が海上保安庁法の任務、所掌事務の規定に基づいて領海警備を行っています。

一方で「領海警備は国家の主権を守るものだから、法執行機関が行うのは適当ではない。軍事機関(あるいは準軍事機関)が行うべきだ」という意見もあります。そう考える方たちの多くは「海上保安庁を軍事機関にすべきだ」あるいは「いっそのこと海上自衛隊が領海警備を担ったらいい」とも主張しています。

確かに、外国では軍隊が領海警備を担っている国もあります。しかし、軍事機関ではない法執行機関が領海警備を行うことには、大きなメリットがあるのです。

法執行機関だから紛争を回避できている

領土問題のように、国家の主権が真っ向からぶつかり合う国家間の争いは、ナショナリズムに火がつきやすく、エスカレートしやすいものです。大きな紛争にもつながるおそれがあります。

こうした場面で軍隊がお互い角を突き合わせるような対応をしていては、ただごとでは済みません。事態をエスカレートさせることなく対処する、その任務を遂行できるのは法執行機関をおいて他にないと思います。なぜそのように言えるのか。

法執行機関には「紛争回避に資する特性(緩衝機能)」があるからです。その特性により、法とルールに基づき、事態をエスカレートさせることなく対処することが可能になります。

特性の第一は「法に基づく活動」です。法執行機関は、国際法・国内法に基づき行動します。そのため、たとえば法執行機関同士が対峙する場合でも、両者のあいだには国際法という共通のルールがあるので、エスカレートしづらいという側面があります。

他方、軍隊は、国家権益を力で守るのが役目であり、力の強い者が正義の実力主義の世界です。お互い力と力の真っ向勝負であるため、やはり法執行機関同士に比べると、容易にエスカレートしやすい側面があります。

第二は「警察比例の原則」です。法執行機関の活動は比例原則の制約を受けます。比例原則というのは、ある侵害行為を防ぐために必要最小限度の力しか使えないという原則を指します。つまり、軽微な犯罪、抵抗に対してミサイルを撃ち込むような強大な力を行使することは許されません。そのため、過大な力の行使になりにくく、大きな紛争にもつながりにくいのです。

これに対して、軍隊の活動は、自軍の被害を最小化して相手を破壊・殲滅することが基本になるため、相手方に対し圧倒的な力を行使します。比例原則とは真逆の関係です。

第三は「火力の大きさ」です。法執行機関が保有する武器は、相手を殲滅させるために使うものではなく、あくまでも犯人逮捕のために使うものです。犯人を逮捕し、裁判にかける“手段”として使うものですから、当然その火力は限定的であり、小さなものということになります。ミサイルやロケットランチャーなどの大火力はありません。人の抵抗を排除する、あるいは船の進行を阻止することができる程度の小規模の火力です。

他方、軍隊の火力は相手を殲滅するためのものであり、当然にその火力は大きくなります。使用すると被害も甚大です。したがって、仮に現場で法執行機関同士の衝突が起こったとしても、その被害は小さくて済み、大きな紛争にはつながりにくいのです。

このように法執行機関には紛争回避に資する特性があるので、国家間の主張が対立する局面では、事態をエスカレートさせないためにも、第一に執行機関による対処を選択すべきではないかと思います。

▲尖閣諸島(魚釣島、北小島、南小島) 出典:BehBeh / Wikimedia Commons

「本当に法執行機関にそんな特性があるのか? 机上の空論ではないのか?」と疑われるかもしれませんから、法執行機関同士の衝突は大きな紛争につながりにくいという事例を次に紹介しましょう。

中国とベトナムはこれまで何度か領土紛争を起こしています。1974年1月に南シナ海の西沙(パラセル)諸島で起こった中国とベトナムの領土紛争では、両国とも軍隊(中国人民解放軍、ベトナム軍)を派遣しました。その結果、両国ともに18名、合計36名もの死者を出すという被害が発生しています。

また、1988年3月の南沙(スプラトリー)諸島の領土紛争でも両国は軍隊を派遣し、このときはベトナムが一方的に大きな被害を受け、74名もの死者を出しています。いずれも軍隊同士の衝突では大きな被害を出す結果となりました。

これに対し、2010年の西沙諸島での紛争では、両国ともに軍隊ではなく法執行機関(中国海警局、ベトナム海上警察など)を派遣しています。この紛争は今も続いていますが、大きな紛争にエスカレートすることなく、死者が出たという情報もありません。

もちろん、これらの被害の大小の要因は、相対する機関の違いのみによるものではないでしょうが、象徴的な事例だと言えます。

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