『瞳をとじて』「私はアナ」という呪文、視線の返還

※本記事は物語の核心に触れているため、映画をご覧になってから読むことをお勧めします。

『瞳をとじて』あらすじ

映画『別れのまなざし』の撮影中に主演俳優フリオ・アレナスが失踪した。当時、警察は近くの崖に靴が揃えられていたことから投身自殺だと断定するも、結局遺体は上がってこなかった。それから22年、元映画監督でありフリオの親友でもあったミゲルはかつての人気俳優失踪事件の謎を追うTV番組から証言者として出演依頼を受ける。取材協力するミゲルだったが次第にフリオと過ごした青春時代を、そして自らの半生を追想していく。そして番組終了後、一通の思わぬ情報が寄せられた。「海辺の施設でフリオによく似た男を知っている」

「私はアナ」という呪文


「『ミツバチのささやき』の撮影中、私はアナ・トレントのことがとても心配だった。“この映画のせいで、この少女は早く年を取ってしまうかもしれない”」(ビクトル・エリセ)*1

映画が架け橋ならば、いったい何との架け橋となりえるのか?世界に魔法をかけた絶対的な傑作『ミツバチのささやき』(73)から50年。長編映画としては『マルメロの陽光』(92)以来31年ぶりとなるビクトル・エリセの新作『瞳をとじて』(23)には、映画との再会と別れが描かれている。

『別れのまなざし』と名付けられた未完の映画から始まる本作は、映画内映画を飛び出し、探偵小説のようにじっくりと歩みを進めていく。ビクトル・エリセという映画作家の刻印であるかのように、静かに開け放たれていく窓。古びた写真や書籍に残されたメモが喚起させる無限の想像力。そしてブリキの缶に詰められた脈絡のない思い出のモノたちは、まるで美術家ジョゼフ・コーネルの「箱」のような記憶のプリズムを放っている(ブリキの缶にはビクトル・エリセ自身の思い出であろう日本のホテルのマッチ箱も入っている!)。

『瞳をとじて』© 2023 La Mirada del Adiós A.I.E, Tandem Films S.L., Nautilus Films S.L., Pecado Films S.L., Pampa Films S.A.

かつて映画監督だったミゲル(マノロ・ソノ)と未完の映画『別れのまなざし』。撮影中に失踪した人気俳優フリオ・アレナス(ホセ・コロナド)。『別れのまなざし』の中でフリオの演じる探偵は、中国の少女の捜索依頼を受ける。依頼主のトリスト・ル・ロワ(悲しみの王)を演じた俳優だけでなく、この映画の関係者の多くが既にこの世を去っている。フリオはなぜ失踪したのか?彼は世界を捨てた男なのか?現在も生きているのか?別の顔として新たな人生を生きているのか?そもそもフリオは“存在”したのか?『瞳をとじて』には、様々な人物=幻影を演じる俳優という職業の、人生のようなものが強く滲んでいく。

そして『ミツバチのささやき』のアナ・トレントとの再会がある。ビクトル・エリセはアナ・トレントと共に、再び現実と幻影の間にあるもの、記憶と忘却の間にあるものの探求を始める。かつて「私はアナ」という呪文を唱えた少女との架け橋を作るように。50年後のアナが瞳を開き、瞳を閉じる。

太陽と月を同時に見る


ビクトル・エリセは相反する二つの要素の間にあるものを探求する映画作家だ。恐怖と憧れ、幻想と現実、無限と有限。それはほとんど“傷口にして刃”のようなものとして表現される。たとえば『ミツバチのささやき』の少女アナ(アナ・トレント)が、スクリーンに投影される『フランケンシュタイン』(31)の映像に身を乗り出すとき、アナの瞳には未知なるものへの恐怖と共に憧憬の“まなざし”が宿っていた。恐怖が自分の世界を広げてくれるような感覚。そのとき傷は広がり、同時に癒される。これはビクトル・エリセ自身の映画の原体験と深く結びついている。

マルメロの陽光』以降、ビクトル・エリセは複数の短編映画を撮っている。少年が自分の手の甲に描いた時計の絵に耳を当て、聞こえないはずの秒針に耳を澄ます傑作『ライフライン』(02)を始め、そのどれもがビクトル・エリセの映画の真髄に迫っている(『ライフライン』の少年は、『ミツバチのささやき』で線路に耳を当てていたアナの姿そのものだ)。

『瞳をとじて』© 2023 La Mirada del Adiós A.I.E, Tandem Films S.L., Nautilus Films S.L., Pecado Films S.L., Pampa Films S.A.

『La Morte Rouge』(06)という短編では、ビクトル・エリセが初めて映画に触れた原体験が語られている。当時5歳の少年ビクトル・エリセにとって、ロイ・ウィリアム・ニール監督の『緋色の爪』(44)に感じた恐怖は、スクリーンの外にまで影響を及ぼすほど強烈な体験だったという。内戦中のスペイン。異国からやってきた映画。映画は想像の世界、避難所であり、同時にそこに描かれた恐怖はすぐ隣にある現実とも重なっていた。

『瞳をとじて』は『別れのまなざし』という未完の映画から始まる。悲しみの王ことトリスト・ル・ロワの住む廃墟のような屋敷。古い薔薇の香りが充満しているような洋館の一部屋。この屋敷の庭園には双面のヤヌス像が置かれている。ビクトル・エリセの愛する作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの「死とコンパス」からの引用。物事の始まりと終わりを同時に見据えるヤヌス像は、この映画の主人公であり、かつて映画監督だったミゲルと失踪した俳優フリオの関係と符合する。ミゲルは記憶に生き、フリオは忘却を生きている。そしてヤヌス像は相反する二つの要素、太陽と月を同時に見据えるビクトル・エリセという映画作家の“まなざし”を表わしているといえる。

南へ!


「安堵と、屈辱と、恐怖をもって、彼は、自分もまただれか他のものによって夢見られた、ひとつの幻影だったことを理解したのである」(ホルヘ・ルイス・ボルヘス「円環の廃墟」)*2

フリオ・アレナスの失踪事件が“未解決事件“を扱うテレビドキュメンタリーで扱われる。映画監督を辞め、小説家から翻訳家になった現在のミゲルは、経済的な理由も考慮した上でこの番組に出演する。この番組がきっかけとなり、ミゲルは当時の仲間たちと再会し、語らうことで、フリオの記憶を少しずつ手繰り寄せていく。しかし様々な人物が語るフリオの記憶や印象は、むしろミゲル自身が他人から“どのように見られていたか”を明らかにしているように思える。ここには、私自身が他人によって作りだされた“幻影”なのかもしれないという不安、アイデンティティへの問いがある。

『瞳をとじて』© 2023 La Mirada del Adiós A.I.E, Tandem Films S.L., Nautilus Films S.L., Pecado Films S.L., Pampa Films S.A.

『瞳をとじて』の前半にはメランコリーなムードが漂っている。しかしミゲルがマドリードからグラナダに南下するとき、映画の様相は少しずつ変化していく。かつて北のエピソードと南のエピソードの両方で一本の映画になるはずだったビクトル・エリセの『エル・スール』(83)。製作側が撮影途中に資金を引き上げたため、この作品は“未完”の作品として知られている(それにも関わらず傑作であることに何一つ疑いはない)。かつて南へ行くことが叶わなかったビクトル・エリセの映画が、ついに南へ向かう。

海を臨み、光り輝くグラナダの風景は、まるで在りし日の映画のロケ現場のようだ。ミゲルはギターを抱え、『リオ・ブラボー』(59)の「マイ・ライフル、マイ・ポニー&ミー」を歌う。このシーンが感動的なのは映画史的引用であること以上に、ミゲルの別の顔、新たな表情が捉えられているところだろう。ここにはミゲルがそれまでに見せなかった笑み、陽気な歌がある。灰色だった画面が紅潮するように色づいていく。映画のライブ感、ドキュメンタリー性がある。マドリードの友人たちとグラナダの友人たちの間で、ミゲルは別の顔を持っている。俳優がいろいろな役を演じるように、ミゲルも様々な自分=役をほとんど無意識の内に演じている。一人の人間のパーソナリティとは、自分自身ではなく他人によって定義されるものなのかもしれない。

フェード・トゥ・ブラック


『瞳をとじて』では、画面のフェードアウトが頻繁に行われる。映画の句読点であり、音楽的なリズムであり、呼吸であり、古典映画への憧憬でもある本作のフェードアウトは、何より“まばたき”のようでもある。ビクトル・エリセは“まばたき”と“まばたき”の間に封じ込められたものの真贋を分けない。あなたがそれを見たというのなら、それは真実になる。『ミツバチのささやき』の少女がフランケンシュタインと出会ったように。

悲しみの王が探偵に渡した古びた写真に封じ込められた中国の少女は、誰が人生のどのタイミングでその写真を見るかによって、刻々と見え方が変わっていく。そのときその瞬間の少女の生が封じ込められているにも関わらず、一枚の写真の物語=想像力は常に他人によって更新されていく。ビクトル・エリセの映画は、映画が何を封じ込めることができるか、そして封じ込めることによって何が生まれ、何が死んでいくかの間で常に揺れ動いている。

『瞳をとじて』© 2023 La Mirada del Adiós A.I.E, Tandem Films S.L., Nautilus Films S.L., Pecado Films S.L., Pampa Films S.A.

失踪したフリオはすべてを忘れ、いまはガルデルという名で“過去のない男”としてシスターたちと施設で暮らしている。もっと快適な部屋があるのに、敢えてがらくた倉庫のような部屋で暮らす現在のフリオ=ガルデルは、自分の人生をコントロールしているようにも見える。フリオ=ガルデルは、かつて自分が出演した『別れのまなざし』の中国の少女の写真をなぜか大切に持っている。しかしすべての真意は不明のままだ。

フリオの娘アナ(アナ・トレント)が、不意にハッとするような言葉をミゲルに向けて言い放つ。目の前にいるフリオのことを父親だと思えなかったら?アナが父親と再会するシーンには崇高なまでの孤独の影がある。アナの瞳が父親の“イメージ”をキャッチしようとする。フェード・トゥ・ブラック。そのとき何かが生まれ、何かが死んでいく。

視線を返す


ビクトル・エリセの短編に『Sea-Mail』(07)という作品がある。アッバス・キアロスタミとの往復映像書簡として撮られた作品だ。この短編でビクトル・エリセは瓶の中に手紙を詰め、海に投下する。いつ誰がこの手紙を読むのか分からない手紙。あるいはそのまま海の藻屑となって消えていくかもしれない手紙。瓶詰にされた手紙の旅は、ここから始まるかもしれないし、ここで終わってしまうかもしれない。無限と有限の両義性があるという意味で、この短編は極めてビクトル・エリセらしい作品といえる。

エル・スール』の“南編”に限らず、ビクトル・エリセにはいくつもの実現できなかった企画がある。『La Promesa de Shanghai』(上海の約束)や蓮實重彦が「映画巡礼」の中で明かしている『ベラスケスの鏡』。しかし『瞳をとじて』には長編映画を撮れなかった悲壮感よりも、悲壮感を超越した心の平穏さへの祈りが強く滲んでいる。届かなかった手紙は、瞳を閉じることで追悼され、いまも手紙を拾う人を求めて海を彷徨い続ける。本作のミゲルとフリオは何かを待っているかのように門の前で海を見下ろし続けている。

『瞳をとじて』© 2023 La Mirada del Adiós A.I.E, Tandem Films S.L., Nautilus Films S.L., Pecado Films S.L., Pampa Films S.A.

『瞳をとじて』は移動映画館で始まった『ミツバチのささやき』と円環を閉じるかのように映画館のシーンで終わる。本作のすべてを超越するラストシーンには、無限と有限の両方の深淵が浮き上がる。単純な映画賛歌とは一線を画している。ミゲルの愛すべき親友マックスは、カール・テオドア・ドライヤーが死んで以来、映画に“奇跡”は起きていないと冗談半分な言葉を投げかける。ミゲルはかつての親友であり、自分の映画の俳優であり、アナの父親であるフリオが記憶を呼び覚ます“奇跡”に賭ける。

『瞳をとじて』は、アナ・トレントという俳優の少女時代に、そしてあらゆる過ぎ去った時間に視線を返すことで、映画がいったい何との架け橋になりえるかという問いそのものを投げかけている。それは失われた時間などないという強固な宣言のようにさえ思える。スクリーンから投げかけられる視線は、カットの声がかかるまで私たち観客を見つめ返し続けている。

*1:[The Cinema of Victor Erice An Open Window Revised Edition] Edited by Linda C. Ehrlich

*2:ホルヘ・ルイス・ボルヘス『伝奇集/エル・アレフ』篠田一士訳 グーテンベルク21

文:宮代大嗣(maplecat-eve)

映画批評。「レオス・カラックス 映画を彷徨うひと」、ユリイカ「ウェス・アンダーソン特集」、リアルサウンド、装苑、otocoto、松本俊夫特集パンフレット等に論評を寄稿。

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『瞳をとじて』

2月9日(金)よりTOHO シネマズ シャンテほか全国順次ロードショー中

配給:ギャガ

© 2023 La Mirada del Adiós A.I.E, Tandem Films S.L., Nautilus Films S.L., Pecado Films S.L., Pampa Films S.A.

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