戦国時代に大きく関わる「勘合符」とは何か? ~勘合貿易について分かりやすく解説

戦国時代の西日本において、中国(明国)との貿易は各領地を治める大名にとって重要な収入源の役割を果たしていた。

その中国との貿易において使用されていた通商許可証が「勘合符」であり、この勘合符を使った勘合貿易(日明貿易)は日本と中国互いに大きな利益を生み出した為、室町時代から戦国時代の間長きに渡って続けられることとなった。

しかし、16世紀中頃に織田信長が登場し、世の流れが戦国時代から安土桃山時代に移行する頃には、この勘合符は表舞台から姿を消し、その存在すら聞かれなくなっていった。

そこで、今回はこの「勘合符」について注目し、戦国時代においては如何に使用されていたのかを明らかにしていこうと思う。

また、西国を治めた大内氏に大きく関連した内容ともなっているので、大内氏に興味のある読者の方はぜひ最後までお付き合い頂ければ幸いである。

勘合符って何?

画像:勘合符イメージ public domain

勘合符とは、簡単に言えば「日本側が中国側との貿易を行う際、自身が海賊(倭寇)、密貿易ではなく正式な日本の商人、外交使節であることを示す証明書」のことである。

当時、中国を治めていたのは朱元璋が打ち建てた「明」であり、日本では室町幕府3代将軍の足利義満が豊富な資金力を必要としていたため、明国との貿易に目を向け始めたのがこの貿易のきっかけであった。

足利義満は明より「日本国王」として冊封を受けると、室町幕府と明との交易が本格化し始め、ここで「勘合符」が歴史の舞台に登場することになる。

なお、日本と中国との正式な貿易は、平安時代の894年に菅原道真遣唐使の派遣を中止して以来のことであり、約500年ぶりの通商再開であった。

また、この勘合符は基本的に明国が発行するもので、日本側が発行することはなかった。これは明国がこの貿易を対等取引ではなく、明国皇帝と臣下諸王の朝貢と下賜と捉えていたことからである。

勘合符の使い方は簡単で、取引相手に割り符を持参し、相手先にある原本である「勘合底簿」と照合する方法である。割り符は室町幕府と明国双方100枚づつ保有したとされる。

幕府から商人へ

勘合貿易は結果として室町幕府と商人双方に莫大な利益をもたらすこととなった。また、明国側の「正式な貿易船と倭寇を区別する」という目的も成功し、交易が正式に始まると海賊活動をしていた倭寇たちの活動は一時的に減少する形となった。

しかし、この貿易の形態は上記に示した通り対等な取引ではなく、あくまでも明国皇帝と臣下である日本国王との朝貢というものであり、足利義満が始めたこの貿易は、文字通り天皇に対しての反逆行為と見なされてもおかしくはなかったのである。

そのため、この点を問題視した人々からは大きな不評を買い、4代将軍足利義持が将軍を継いだ際にこの貿易は一時的に中止。その後、6代将軍足利義教の時代に再開されたが、幕府の権威低下に伴い、自力で遣明船を派遣することが出来なくなってしまっていた。

これにより、幕府は堺や博多の有力商人に遣明船を請け負わせる方式を取るようなり、幕府に代わって商人らが勘合貿易を取り仕切るようになっていった。

勘合符を巡る細川氏と大内氏の争い 〜寧波の乱

画像:大内義興 wiki.c

1477年の応仁の乱を機に時代が戦国時代へ突入すると、勘合貿易の形も大きく変化するようになる。

応仁の乱によって室町幕府が完全に形骸化すると、日本各地で力を蓄えた戦国大名が出現。

そして、勘合符によって得られる莫大な利益を巡り細川氏大内氏の2氏は大きな事件を起こすこととなる。

もともと足利将軍家の管領であり堺を拠点としていた細川家と、山口を本拠とし、兵庫、博多の権益を保有していた大内家は領内の商人と結びつき、それぞれ独自に遣明船を派遣するほどの力を持つほどであった。

しかし、両者は次第に互いの勘合符の正当性を巡って関係が悪化。さらに1505年に明国で正徳帝が即位すると、細川氏に先行する形で大内氏が遣明船(勘合船)を主催し、明国より発行された正徳勘合符を独占してしまう。

さらに、大内家当主の大内義興足利義稙を擁して京都に上洛すると、その功績から遣明船派遣の管掌権を幕府から永久的に保証され、明との貿易港を博多へと移行させた。

ところが、義興が京都から山口へと引き上げると、細川家当主の細川高国は義興の貿易独占に公然と反発するようになる。

1523年、大内家から遣明船が派遣されると、これに対抗し細川高国は、かつて使用された古い勘合符を用意し、同じく遣明船を派遣。交易先の寧波には大内家の船が先に入港していたが、細川方の船団は港の役人たちに賄賂を贈ったため、細川方が先に交易することとなった。

しかし、これを知った大内方の船団は激怒し、細川方の船団を襲撃。さらに明側の役人を殺傷する大事件へと発展してしまう。

この事件は「寧波の乱」と呼ばれ、結果として日明間の信頼関係は大きく揺らぎ、貿易の縮小を余儀なくされてしまう。

また、この乱から5年後に大内義興が世を去り、敵対関係にあった細川高国も3年後に内紛により自害してしまったため、勘合貿易は一時中断となった。

大内氏の隆盛と滅亡、そして勘合符消滅へ・・・

画像 : 大内氏家紋 wiki c

大内義興が亡くなり、大内家の勢いは一時的に衰えるかと思われたが、後を継いだ大内義隆は堅実に領国経営に取り組んだため、むしろ大内の勢いは増すこととなった。

そのため、大内家は長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前の六カ国を領する大大名に成長し、西国随一の大名へと成長。さらに1536年、大内義隆は再び明との交易に着手したため、勘合貿易は復活。

大内家が明との貿易を独占する形となり、勘合符を活用した貿易から莫大な利益を生むと、本拠である山口を「西の京都」と呼ばれるほど文化的にも優れた国として築き上げた。

しかし、1542年に始まった尼子氏との月山富田城の戦いで敗北すると、大内家の勢いは完全に停滞してしまう。この戦いで義隆は甥で養子だった大内晴持を失ったことから、政治的野心を喪失、次第に政務を放棄し遊興に明け暮れるようになりだした。

そのため、陶隆房を中心とした武断派の家臣が反乱を起こす「大寧寺の変」が勃発し、当主の大内義隆は自害。大内家は急速に衰退してしまう。

さらに、武断派らによって新たに大内家当主となった大内義長は、1556年に明に使者を使わし勘合貿易の再開を依頼するが、明国側は義長を簒奪者と認識したため、貿易を拒絶されてしまったのである。

勘合貿易による収益も失った大内家にかつての勢いは無く、1555年に陶隆房が毛利元就に敗れ自害すると、大内氏はさらに弱体化の一途を辿ることとなった。

統制の取れなくなった大内家は新たに台頭した毛利元就に抗する力をも失い、1557年に遂に滅亡。歴史の表舞台から姿を消してしまうのであった。

また、この大内家の滅亡により勘合符を使った勘合貿易も停止し、日明間の公式な外交関係も完全に途絶える形でなってしまった。

その後の勘合符の行方は不明であり、時代は再び、商人や倭寇を中心とした私貿易・密貿易が中心となっていき、徳川幕府の容認した朱印船が日本の正式な交易船へと移り行くのであった。

最後に

画像 :日明貿易船旗 (1584年) public domain

もともとは室町幕府が莫大な利益を得ることを目的として行われた勘合貿易であったが、応仁の乱の後、勘合貿易の権利は細川氏と大内氏のいずれかの二者択一の状況へと変化していった。

また、大内氏が西国六カ国を有する戦国大名と成り得たのは、勘合符と貿易を独占し、莫大な経済力が背景にあったことがわかった。

しかし、その大内氏が滅亡すると、勘合貿易は行われなくなり、勘合符そのものも消滅するという結末となってしまった。

そして、新たに中国地方の覇者となった毛利家が勘合貿易を引き続き行った記述が見られないのは、おそらく毛利家は勘合符に代わって船旗を使った私的な貿易に切り替えていったからと考えられる。

参考 :
世界史の中の戦国大名 鹿家敏夫 | 講談社

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