【対談連載】心理カウンセラー・心理アドバイザー 新宮一夫(上)

【出雲市発】私自身の出自などもあって神社には縁が深く、とりわけ出雲には独特の存在感を感じる。先日、何度めかの出雲詣での際、ふと新聞の見出しが目に止まった。新聞名は「島根日日新聞」。出雲や松江などを中心に情報発信を続ける老舗の地方紙だ。記事を読むうちに、むしょうに著者にお会いしたくなった。こうなると元記者魂が燃えてくる。いったん帰京して同新聞社に連絡したところ、担当の方がご尽力くださり著者にお目見えが叶うことになった。1本の記事をご縁に、再び出雲に向かった。(創刊編集長・奥田喜久男)

心のケアで患者を支える

カウンセラーとしての仕事

――新宮家の天井を支える太い梁を見上げながら――

奥田

見事な梁ですねえ…。岐阜の高山にいるようです。建てられてどのくらいになるんですか。

新宮

6代目の時ですから、170年前…、1850年代です。

奥田

ペリーが浦賀に来航した頃ですか! 新宮先生は何代目に当たられるのでしょう。

新宮

10代目です。

奥田

継承されているのですね。さて、まずはご自身の話をお聞かせてください。お生まれはこちら(出雲)で?

新宮

生まれたのはこの家ですが、父の仕事の関係で2歳の時に出雲を離れました。その後、進学や仕事であちこち移ったりして、68歳でこちらに戻ってきました。

奥田

ということは、66年ぶりの里帰り。

新宮

そうなんです。UターンというよりはIターンに近い感じですね。

奥田

里帰りされるまではどのように?

新宮

18歳まで松江で育って、香川の大学に進学。卒業してからは、心理の臨床家として大阪を皮切りに、愛媛や高知で勤めていました。その後恩師からお声がけをいただいて、鈴鹿医療科学大学で教授として勤務しました。

奥田

臨床心理士というのはどういう仕事をされるんでしょう。

新宮

心理職の専門家として、クライアント(患者)が抱える精神的な病理や悩みに対して、心理検査やカウンセリング、治療など心のケアを行います。近年ではスクールカウンセラーとして、小中高や大学で助言や援助なども行っていますね。

奥田

先生の職歴に沿ってお話ししていただくと。

新宮

大阪では知的障がい者の方々が自律して生活できるようカウンセリングや生活指導を、愛媛や高知では行政機関に所属して、地域精神医療に従事していました。医師や保健師などとチームを組んで県内を巡回するんです。大変でしたけど、やりがいがありましたね。

奥田

現在はどのような活動をされているのでしょう。

新宮

赤ちゃんとお母さんの心育ち、乳幼児と家族の子育て支援をしています。「乳幼児精神保健」という半世紀前に欧米で始まった新しい分野です。

奥田

その分野の視点で書かれたのが、『出雲発!スサノオ―はるかなるこころの旅路―』という著書というわけですね。ご本については後ほど詳しくうかがうとして…。いろいろなところで仕事をされていますが、印象深い土地を一つ挙げていただけますか。

新宮

20年暮らした高知県も懐かしいのですが、やはり社会人のスタートとなった大阪の富田林でしょうか。知的障がい者の方々が仕事をしながら一生涯を過ごす施設で、職員は自活に必要な保護や指導をするんです。3年と3カ月勤めておりました。

奥田

施設はどのくらいの規模なんですか。

新宮

就学前の児童から40歳くらいの大人まで、400~500人はいたと思います。広い敷地にたくさんの寮や職員の宿舎があって、私も宿舎に入って24時間生活を共にしていました。

奥田

ずいぶん大きい施設ですね。

新宮

当時、日本一の規模でした。保育士や指導員など、さまざまな職種で人が集まってきていて。家内とはそこで出会ったんです。寮の栄養士をしていましてね。そんなおまけもあった職場です(笑)。

30年を経て気づいた

大きな勘違い

新宮

実は辞めてから30年ぶりに、家内と一緒にその施設を訪ねたことがあったんです。そうしたら、今では年老いた、当時の寮生たちが私の顔を見るなり、昔と同じように「新宮先生や!」と笑顔で駆け寄ってきてくれて。こちらは名前がうろ覚えの人もいるというのに…。

奥田

すごい記憶力ですね。ちょっと震えがくるような。

新宮

はい。胴震いしました。と同時に「ああ、自分はこの方たちに生かされていたんだ」と気づいたんです。

奥田

どういう意味ですか。

新宮

当時、私は大学を卒業したばかりでしたが「先生」と呼ばれていたんです。すると何だか、自分がその方々が生きるための世話を「やってあげている」つもりになっていた。でも、それはとんでもない錯覚でした。

奥田

勘違いしていた?

新宮

そうです。お世話をしてあげているどころか、日々の力をもらっていたのはむしろ私のほうだった。でも、当時の私はまったく気づいていませんでした。

奥田

…それがわかるには年月がかかりますよね。生涯わからない人も多いと思います。

新宮

そう考えると、大学を出たての者が先生と呼ばれるのは、おこがましいようにも感じました。

奥田

呼称による勘違いをしますね。少し話をもどしますが、先生は大学に進学される際、すでに社会福祉に対して意識をお持ちだったんですか。

新宮

うーん。それはなかったように思いますね。むしろ入学してから恩師と出会ったことで、その後の人生が決まりました。中園康夫先生とおっしゃる日本を代表する社会福祉学者です。

奥田

中園先生から教わったことで最も大きかったと思われるのは?

新宮

哲学を教えていただいたことでしょうか。「自分が在るとは何か」「人の話を聞くとはどういうことか」など、根源的な人間存在の意義や考え方を丁寧に教えていただきながら、社会福祉や臨床心理の専門を学んだのは大きかったです。先生から学んだことは、人生を通してずっとつながっているように思います。

奥田

大学時代に哲学の礎を築かれたと。

新宮

いや、とんでもない! ゼミでハイデッガーの『存在と時間』は読みましたが、まったくわけがわからない(苦笑)。理解できたのは30年後です。「なんだ、こういうことだったのか!」と。

奥田

こういうこととは?

新宮

「人間は人との関係の中で生きている」ということです。50歳を過ぎてからの気づきでした。

奥田

長年胸にあった恩師の教えが、時を経てからふわっと「解」を得たような…。

新宮

そうですね。特に意識はしていませんでしたが、常に心の中にあったんでしょうね。

奥田

そうしたテーマについて、小さい頃から気づきみたいなものはお持ちだったんですか。

新宮

うーん(考え込んで)。いや特には…。ただ5歳くらいの時、赤痢で死線をさまよったことがあります。野戦病院のようなところに一夏隔離されたんですが、父は留学中で不在。母は当時妹が生まれたばかりで来られなくて。私を可愛がってくれた祖母がずっと付き添ってくれました。

奥田

おばあちゃんに深謝ですねえ。

新宮

まさに命の恩人です。

奥田

人は五感の中に刻み込まれた歴史があって、いつもは意識していなくても、ふとした時に浮かび上がってくるのではと考えることがあります。先生は闘病中子どもながらに、死と語り合っていたのではないでしょうか。

新宮

確かに言葉では表現できないものがふとよみがえるとか、蓋のようなものがずれて、無意識下にあったものが表面化することはあるかもしれません。当時のことが私のどこかに刻み込まれていたのかもしれませんね。(つづく)

お客様をお迎えする2脚の椅子

見るからにビンテージ感漂う2脚の椅子。向かって右側は、新宮先生のお祖父様が広島時代に書斎で使っておられた椅子で、100年以上前につくられたもの。左は先生のお父様が、ご家族一人一人に合わせて手作りされた椅子。65年が経つという。椅子はいずれも現役で、新宮家の玄関土間で静かに来客を迎えている。

心に響く人生の匠たち

「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)

<1000分の第344回(上)>

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