西サハラ問題とはなにか(1) アフリカ最後の植民地を可視化する

アフリカにはまだ、植民地が残っている。現在西サハラと呼ばれる地域は、アフリカ大陸全体が西欧諸国によって植民地支配されていた時代、スペイン領サハラとされていた。その後、スペインは宗主国としての責任を放棄して撤退。国連は今も、西サハラを「植民地独立付与宣言が適用される地域」としている。なぜ現在も植民地のままなのか? (岩崎有一)

西サハラ全図

◆地図上で空白のままの48年

かつて、西サハラにはサハラーウィと呼ばれる人々が暮らしていた。20世紀後半にアフリカ諸国が次々と独立を遂げるなか、サハラーウィは1973年にポリサリオ戦線を組織し、スペインからの解放闘争を始めた。

1975年、モロッコは西サハラへの軍事侵攻を始める。スペインが撤退したことで、ポリサリオの抗戦相手はモロッコにかわった。モロッコは分離壁を建設し、西サハラは占領地と解放区に分断された。
この地の帰属を住民投票で決めるとする国連和平案に、サハラーウィとモロッコは合意。しかしこれまで、住民投票実現に向けたプロセスはまったく前進していない。

西サハラの8割を占領するモロッコは、この地域の“モロッコ化”を推し進めている。占領地の都市は、事情を知らなければ、モロッコの地方都市にしか見えない。“モロッコ化”の一環として植民が進められた結果、占領地のサハラーウィはマイノリティとなった。モロッコでは、西サハラ占領政策の否定は取り締まりの対象だ。監禁や拷問など、公権力によるサハラーウィへの弾圧は日常的に行われている。

政治難民となり西サハラを離れたサハラーウィの多くは、アルジェリア領内の難民キャンプに暮らす。周囲を砂漠に囲まれ援助物資に頼るキャンプの生活は、過酷なものだ。かくして、スペインに放棄されモロッコに侵略された西サハラは、いまだ植民地のまま現在に至っている。

サハラーウィ難民キャンプ(2018年筆者撮影)

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◆占領地取材許さぬモロッコ当局…

西サハラには、世界屈指の良質な漁場と、リン鉱石の巨大な採掘場がある。モロッコは、西サハラの資源を採取・採掘し、“モロッコ産”として輸出してきた。タコやイカなど不法にとられた産物が、偽りの産地を記され、日本で、世界各地で消費されている。また、「欧州の工場」と呼ばれるほど、モロッコに拠点を置く外国企業は多い。モロッコとの関係を良好に維持しようとすると、国も企業も、西サハラ問題には踏み込みにくい。

モロッコは占領地の取材を許可しないため、占領政策の実態に関する報道は極めて限定的だ。また、ポリサリオ戦線を“分離独立派”とするなどの誤った記述が、正確な理解を妨げてきた。現状の黙認、問題のタブー視、乏しい情報量が、西サハラ問題を長期化させ、武力による占領の既成事実化を後押ししてしまっている。

西サハラ最大都市エル・アイウン(2018年筆者撮影)

西サハラのことは、西サハラの人々が決めればいい。解決策は住民投票だとすでに決められている。しかし、現状の既成事実化を図るモロッコと、国際社会の無視と無関心が、その実現を遠ざけてきた。
西サハラ住民による解放闘争の開始から50年が経つ。忘れられた紛争と呼ばれこともある。忘れられたまま、アフリカ最後の植民地の解決と、30万を超えるサハラーウィの存在が、うやむやにされようとしている。

西サハラ問題の可視化と正確な理解を促したい。西サハラの占領地と解放区、モロッコ、アルジェリアとサハラーウィ難民キャンプ、スペイン、日本各地で取材を重ねた。この問題の全体像を整理し、解説していく。 (続く)

西サハラ解放区のチーファーリーチー(2019年筆者撮影)

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