西サハラ問題とはなにか(5) 占領政策によって上書き消去されるサハラーウィの記憶

モロッコは西サハラを占領後、歪めた歴史を唱え、地名を書き換えた。占領の手段は、武力だけではない。西サハラのモロッコ化は、サハラーウィの足跡を消しながら進められてきた。(岩崎有一)

ブージドゥール中心部の広場。スペインが建てた灯台が見える。サハラーウィの民族衣装ダラーアをまといモロッコ国旗をもつ男性の彫像が建てられていた。(2018年筆者撮影)

◆「西サハラ」は存在しない

「国王がこの地を解放してくださった。それに反対する声があることも知っています。残念です。」
占領地で出会ったモロッコ人の女性に西サハラの現状について話を向けると、彼女はこう話した。学校では、西サハラはモロッコ領だと教えられる。あらゆる地図はモロッコに西サハラを含んで描かれている。モロッコ人の多くは、「国王がサハラをスペインから解放した。我々が“サハラ”を奪還したのだ」と信じてやまない。

国王がこの地を解放してくださった」と話すモロッコ人の女性。彼女は、サハラーウィの民族衣装メラフファをまとっていた(2018年筆者撮影)

占領地以外に暮らすモロッコ人も同様だ。スペインのラス・パルマスに生まれ育ったスペイン人の男性は、「モロッコ人は良き隣人だが、西サハラについては会話が成り立たない。」と言って、肩をすくめた。確かに、西サハラの帰属は決まっていないことを前提に話ができるモロッコ人と出会うことは、そうそうないという。

◆消された地名と意味

アフリカの国々では旧宗主国の言葉が公用語として使われることが多いように、サハラーウィにとっての第一外国語はスペイン語だ。しかし、モロッコ人の入植が進んだ結果、スペイン語話者はしだいに減少し、モロッコの第一外国語であるフランス語に取って代わられた。

エル・アイウン郊外の道に立つ、「注意 積もった砂があり危険」とフランス語で書かれた看板(2018年筆者撮影)

西サハラがスペイン領サハラだった時代、スペインは、サハラーウィによるアラブ語の地名をそのままローマ字表記していた。西サハラ最大都市の名は、エル・アイウン(العيون)だ。英語に直訳するならば、「The eyes」あるいは「The springs」を意味する。スペインはこの町の名を、アラブ語の音にならってEl Aaiunとした。

しかしモロッコは、ここを占領後にライウーン(Laayoune)というフランス語風の造語をあてがった。同様のケースは他にも見られる。西サハラの地名表記が資料によって異なるのは、この改名の結果だ。モロッコはスペイン領サハラの足跡を造語で上書きすることで、スペインの足跡を消し、サハラーウィの記憶までも消そうとしている。通常、サハラーウィが改名された地名を使うことはない。

“ライウーン”バスステーションの入り口。エル・アイウンにて(2018年筆者撮影)

◆“サハリアン”なる言葉も登場

書き換えられたのは地名や史実だけではない。サハラーウィ女性がまとうメラフファという衣装を、モロッコ人入植者も好んでまとうようになった。近年は、西サハラで話されてきたハッサニーアを入植者が話すよう奨励されるようになったと聞く。さらには、占領地に生まれ育ったサハラーウィとモロッコ人を合わせて意味する“サハリアン”なる言葉があることも、現地の若者から知った。サハラーウィの文化が、モロッコ人に取り込まれようとしている。

ブージドゥールの海岸で夕暮れのひと時を楽しむ人々。サハラーウィとモロッコ人の見分けはつかない(2018年筆者撮影)

かつてこの地の主だったサハラーウィの人口比は、モロッコ人の入植が進んだ結果、およそ2割にまで減った。固有の文化までうやむやに同化されつつある。現地に身を置き目を凝らしても、誰がサハラーウィなのかを見分けることはできない。傍目には、占領地のサハラーウィはこのまま“サハリアン”となって消えてしまいそうにも見える。

現地で耳を澄まし続けた。少しずつ、上書きされることのない声が聞こえてきた。(続く)

西サハラ全図。西サハラの地名はすべて、サハラーウィによるアラブ語表記をカタカナにして記した(筆者作成)

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