なぜ映画ファンは「ブレラン沼」にハマるのか?侃侃諤諤『ブレードランナー』ファイナル・カット誕生の経緯とレプリカント論争の着地点

『ブレードランナー ファイナル・カット』Blade Runner: The Final Cut © 2007 Warner Bros. Entertainment Inc. All rights reserved.

何度でも観たい傑作SF『ブレードランナー』

映画だけでなく後のマンガやアニメ、ゲームなど、SF的要素を含んだメディア全体に多大な影響を与えた『ブレードランナー』(1982年)。本作に“様々なバージョン”があることは有名な話だ。「劇場公開版(通常版)」、「インターナショナル版」、「ディレクターズ・カット」、そして今回CS映画専門チャンネル ムービープラスで放送される「ファイナル・カット」である。

それぞれ違いがあるのだが、中でも最も劇的に変わったのが「ファイナル・カット」だと言える。 まず「劇場公開版」にあった主人公デッカード(演:ハリソン・フォード)のナレーションがなく、オチも大きく異なる。これは監督のリドリー・スコットの意図が大きく働いているのだが、なぜ公開から長年たってから、このような物語の根幹を覆すほど大きな、ほぼ別物といえるようなバージョンチェンジの製作が行われたのか? それには様々な要素が絡み合っているのである。

リドスコ監督の過剰なコダワリと製作側との衝突

『ブレードランナー』はリドスコにとって並々ならぬ意気込みの作品で、撮影中もいいムードを作るために、先んじて完成していたぶんのサントラ(奏:ヴァンゲリス)を爆音で流したり、ダイナーにいる男女4人を外から描いた寂しい街の光景絵画「ナイトホークス」(画:エドワード・ホッパー)のテイストとムードを出したくて、「こういう風にしてくれ!」と絵の複製を持ってスタッフに見せて回っていたらしい。彼の世界観構築への執念が早くも見て取れるし、明らかに自分の映像的ビジョンと世界観をスクリーンに焼き付けようという意志に満ちている。

しかし、製作現場は混乱していた。リドスコは当初、本国イギリス人クルーとの撮影を希望していたが、アメリカの組合のルールで果たせなかった。また、いちいち「何でこのシーンはこう撮るの?」と聞いてくるスポンサーやプロデューサー、スタッフにもウンザリしていた。役者やスタッフが自分の見ていないところで勝手に演出を変えてしまうことも、監督のビジョンが最優先のイギリスとアメリカの映画の撮り方の違いにストレスを感じていた。いちいち「なぜ?」と聞かれて、そのたびに説明するのを嫌ったのだ。

また、「照明が気に入らない」と絵コンテレベルからやり直しを命じるなど、リドスコのこだわりで撮影は遅れまくり、未使用カットもプリントしまくってから検討するため、コストはたちまち膨らんでいった。当然、プロデューサーとの関係も悪くなる。しかしリドスコは、細かいディテールにまで目を光らせるというCM監督時代に身につけたやり方を発揮するために雇われたはずだ、と自分のやり方を変えなかった。

予算が膨らんだため様々なところから資金を集め、配給会社も複数乗り合いとなった。より“失敗できない作品”となり、製作側も様々なテコ入れや口出しをせざるを得なくなる。この辺りが、のちに複数バージョンが生まれる要因になっていく。

そもそも「劇場公開版」についていたデッカードのナレーションも、ワークプリント試写での「難しすぎる」という観客の反応を受けたプロデューサー陣によってつけられたものだ。その状況説明的なナレーションに、リドスコは「デッカードがバカにしか見えない」と不満たらたら。彼もナレーション自体は必要だと思っていたが、それはデッカードが自分の内面を哲学的に考察するものと考えていた。しかし、その意図は叶わなかった。なぜなら彼は撮影後、コスト増大の責任をとらされてか一時的に解雇され、編集にフルで参加できなかったからだ。

そうして『ブレラン』は最終的に、判りやすいハッピーエンドのついたバージョンで公開されることになった。つまり、リドスコの意図とは大きくかけ離れた作品として。しかも残念なことに、公開時の興行成績は振るわなかった。それよりも、現場でのこだわりが「あの監督はめんどくさい」とスタジオ/業界内で知れ渡ることになり、リドスコはこの後しばらく不遇の時代を送ることになる。このあたりが、のちの彼の『ブレラン』への妄執につながっていったのかもしれない。

新バージョン“うっかり”誕生秘話

「ファイナル・カット」への道は意外なところから開かれる。あるときクラシック映画の上映会(70mmフィルムで名作映画を観るイベント)で上映された『ブレードランナー』は、まだ誰も観たことのないバージョンであった。それが「インターナショナル版」だと思っていた観客は、実際にかけられたのが全く違うバージョンだったことに驚く。間違えてかけられたのは、まだ存在も知られていなかったワークプリント版だったのだ。

この上映が評判を呼んだため、ワーナーはこれを「ディレクターズ・カット」として公開しようとしたが、リドスコは修正を要求。しかし、彼は『1492・コロンブス』(1992年)の撮影で多忙だったため、彼のチームがリドスコの意図を汲むことに。とはいえ、すべてが彼の思い通りになっていたわけではなかった。そして2007年にやっと満足のいく形に仕上げることができ、これが「ファイナル・カット」になる。

そんな「ファイナル・カット」のナレーションなしのドラマ展開は「ディレクターズ・カット」を受け継ぎ、スタントマンが演じていたシーンを本人に演じさせたり、技術的な不具合をCGで修正するなど、多くの変更点が存在する。しかし最大の変更は、「デッカードはレプリカントではないのか?」という要素がより増大しているところだろう。

ただ、なぜリドスコはこのような説に行き着いたのか。それは彼の中で、当初の脚本に存在した「もし俺がレプリだったら……」とデッカードが思いをはせるシーンのイメージが膨らんでいったことが一因だ。

「デッカードはレプリカントなのか?」論争の顛末

ハンプトン・ファンチャーによる初期脚本には、デッカードが「自分は誰がデザインしたのだろう」というナレーションがあった。これは哲学的、メタファーとしての表現だったが、次の脚本家デヴィッド・ピープルズ版では、そこから発展し「戦闘モデルのレプリカントかもな、俺は……」という台詞になる。もちろんこれもメタファーのつもりだったが、リドスコはこれを文字通りに受け取った。

「ファイナル・カット」には、デッカードの見るユニコーンの夢や、レプリの目の中に光が宿るシーンと同様にデッカード自身にもそのようなシーンが存在するなど、リドスコの「彼はレプリカントである」という説を増強する編集や仕掛けが随所に存在する。詳しくはムービープラスで放送の「ブレードランナー ファイナル・カット◆副音声でムービー・トーク!」内で解説されているが、それら様々な要素、ものによっては偶然だったり現場の混乱からの産物を構成し直して全く別の解釈で、かつ説得力あるものに変える手腕はさすがリドスコ、といったところだ。

しかし、それらは自説に近づけることによって様々な人の手からお気に入りの作品を取り戻す作業であり、そのための数多くの変更と思えなくもない。そんな“リドスコ説”に対し、ハリソン・フォードルトガー・ハウアー(レプリカントのロイ・バッティ役)は「デッカードは人間だ」と真っ向から反対している。

彼らは撮影中、<人間vsレプリカント>の物語だと思って演じていた。ハリソンは「デッカードがレプリだとしたら、人間性を失っていた彼が人間性を取り戻す要素が弱められてしまう」と反論。元々のテーマは、アンドロイドがデッカードに人間的な感情移入を見せる――つまり「人間よりも人間らしい」というのが前提の物語だった。それが根底から覆されてしまっている、と。これにはハウアーも完全同意しており、「それではラストの<人vs機械>の戦いが単なる2体のレプリの戦いになってしまい台無しだ」と語っている。

結局のところ、デッカードの人間性の解釈は観客に任されている。リドスコ自身は、観客がデッカードをレプリカントか否か、どちらにとってもかまわない。しかし私はレプリだと思っている、と表明している。

さらにリドスコは最近、この映画は『エイリアン』(1979年)と世界が同じだと言い出している。たしかに『ブレラン』は、『エイリアン』から音響効果もかなり流用している。『ブレラン』でガフ(演:エドワード・ジェームズ・オルモス)が乗るスピナーの車載コンピューターのモニターは、『エイリアン』の宇宙船ノストロモ号/救命艇で使われていたものと同じデザインだ。

さらに、『プロメテウス』(2012年)の特典映像で、レプリカントの生みの親であるタイレル博士に言及しているシーンがあるなど、『エイリアン』と『ブレードランナー』という自身の代表作をリンクさせようとしているフシが見られる。どちらも続編的存在の製作が続いていることもあり、この動きもこれからどうなっていくのか気になるところだ。

ファンの数だけそれぞれの『ブレラン』がある

リドスコにとって、「もっとも個人的な映画」だという『ブレードランナー』。「ファイナル・カット」は彼が思い入れのある作品を自分の手に取り戻そうとした、その試みの結果なのかもしれない。しかし役者陣が反対するように、どちらのバージョンにも支持する者がいる。もしかするとリドスコを含め、制作者にも観客にも1人1人それぞれの中に自分の夢想する「私のブレラン」があるのではないだろうか。

なぜ、そこまで多くの人々が『ブレラン』に熱狂し続けるのか。セット、スピナー、ブラスター……ひとつの要素だけをとっても、それに人生をかける人々がいるほどである。限りなく完璧、だけどどこか足りず、どのバージョンにもそれぞれの良さがある。そして、それを自分の手で補完したくなる……。それがマニアを魅了する一因なのだろう。この現象はもしかすると、今回「副音声~」で再放送される『2001年宇宙の旅』(1968年)と共通しているかもしれない。

幸いなことに『ブレラン』は今のところ、某“宇宙大戦”映画のようにCGで作り直してしまって元の映画が観られない……ということにはなっておらず、個々のバージョンを観比べられることが本当に幸いである。「ファイナル・カット」がリリースされたとはいえ、今後もまだ動きはあるかもしれない。発見されたワークプリント版も気になるし、ファーストカット版は4時間もあったそうで、それはどこにあるのだろうか。とにかく続編映画やゲーム、ファンメイドがいまだに作り続けられている『ブレラン』世界は、まだまだ終わりそうにないのである。

文:多田遠志

「ブレードランナー ファイナル・カット◆副音声でムービー・トーク!◆」はCS映画専門チャンネル ムービープラスで2024年2月放送

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