ジャイアント馬場没25年企画として伝記絵本『うえをむいてあるこう〜ジャイアント馬場、世界をわかせた最初のショーヘイ』が「プロレスの日」2024年2月19日(月)に発売が決定した。
親族である緒方理咲子さん・公俊さんが、ジャイアント馬場さんの偉大なる足跡を後世に残すために巡り合った今回の伝記絵本。
児童文学作家・くすのきしげのりさん書き下ろしのストーリーに、『神田ごくら町職人ばなし』が注目されている若手漫画家・坂上暁仁さんが絵を執筆したこの作品。
今回の出版に対する想い、ジャイアント馬場さんや元子夫人との当時のエピソードなど、親族だからこそ感じた逸話を緒方理咲子さん・公俊さんに語って頂いた。
巻末にはジャイアント馬場秘蔵の写真が入った「ジャイアント馬場写真館」も掲載。
▼作品紹介『うえをむいてあるこう〜ジャイアント馬場、世界をわかせた最初のショーヘイ』
現在アメリカの野球界を熱狂させるスーパースター大谷翔平。坂本九の「上を向いて歩こう」がビルボード・チャートの頂点を極めた今から約60年前。元プロ野球選手だった馬場正平がアメリカのプロレス界を震撼させるスーパースターとなった。今の子どもたちはもちろん、もしかしたらその親世代も知らないかもしれない、もうひとりの「ショーヘイ」の物語。その激動の人生を振り返る。戦後の日本に希望を与えたジャイアント馬場。最後まで伝え続けたメッセージとは? その生涯が絵本となってよみがえります。
帯には”不沈艦”スタン・ハンセン氏の推薦文が掲載。
【スタン・ハンセン氏のメッセージ】
ジャイアントババを知らない若い人たちにも、この物語を読んでほしい。彼は、偉大なプロレスラーであり、すばらしいアスリートだった。日本のスポーツ界で最も有名な人物のひとりだった。ジャイアントババは、決して戦いを諦めなかった。その背中は大きくて、そして誰よりも優しい人だった。この本を手に取れば、そんなジャイアントババに出会うことができるはずだ。
①伝記絵本『うえをむいてあるこう』出版のキッカケ
――本日は株式会社H.J.T.Productionの緒方公俊代表と緒方理咲子さんのお二人にお越し頂きました。まずはお二人のことをご紹介させて頂きます。緒方理咲子さんから見たジャイアント馬場さんは叔父、元子夫人が叔母にあたります。そして緒方公俊さんが理咲子さんの御子息であり、元子夫人から「ジャイアント馬場」さんの著作権管理を譲渡されて現在の株式会社H.J.T.Productionを設立されました。本日はよろしくお願いいたします。
公俊さん よろしくお願いします。
理咲子さん よろしくお願いいたします。
――今回、ジャイアント馬場さんが亡くなられて25年企画として伝記絵本『うえをむいてあるこう〜ジャイアント馬場、世界をわかせた最初のショーヘイ』が、プロレスの日である2月19日に発売が決定しました。早速私も拝見しましたが、馬場さんが歩んできた人生を走馬灯のように駆け巡らせるようなものを絵本の中で知れるというのは、今までの出版物とはまったく違う角度からなので、これは本当にお子様に向けても非常に見やすいものになっているんじゃないかなという風に思いました。その中で改めてこの伝記絵本『うえをむいてあるこう〜ジャイアント馬場、世界をわかせた最初のショーヘイ』出版のキッカケを教えてください。
理咲子さん 出版のきっかけと申しますのは、まず2020年に息子のところに孫ができまして。孫が生まれたな、と。だんだん大きくなるにつれ、グッズとかがあると普通に『じぃじ、じぃじ』と言うわけです。とは言ってもじぃじというのが何者だか全然分からないんだろうなと。2020年の誕生だったのでちょうどまさにコロナ禍であった中、小中学生の心が病んでいくとか、今では小中学生の1番の死因が自殺であるとかというのを耳にすることがあったときに、叔父の生き方を今この子供たちに伝えていくことによって、まさにどんなときでも自分の可能性に向かってチャレンジしていく生き方。語録の中にも「人生はチャレンジだ」と、ジャンボさんの墓碑のところにもありますけれども。それを伝えていくことこそが祖母でもあり姪でもあったところの私しかやれないし、そここそが自分のやっていきたいことということをすごく思いまして。そこから「絵本にしたいのよ、絵本にしたいのよ、絵本で皆様に伝えていきたいのよ」というのを言い続けていました。
――その頃からずっと思っていらっしゃったんですね。
理咲子さん 思っていたんです。それをお伝えしていく中で、いろいろな方と出会わせていただく中で結果的にこういう素晴らしい作品になっているんですけれども。出版のキッカケというのは、やはり孫が誕生して、この子供たちが馬場正平という存在、ジャイアント馬場という存在を絶対的に知らないわけです。それをどう伝えていこうか、というところで、やはり生き様を伝えたいなというのがキッカケです。
――なるほど。やはり絵本になると子供たちにも馬場さんのプロレス界における偉大なる足跡を知らしめるということにもなりますし、それをキッカケにプロレスを好きになってくれたらと思いまして、非常に面白いなと思いました。
②絵本へのこだわり・見てほしいポイントなど
※お二人の好きなページ
――今回の伝記絵本『うえをむいてあるこう〜ジャイアント馬場、世界をわかせた最初のショーヘイ』のこだわりや見てほしいポイントはいかがでしょうか。
理咲子さん 絵本だからこそ、ある程度の年齢になると1人で読めるんですけれども、お母さんの膝にのせてまず読んであげるというところで母と子も繋がりますし、だからこそどんなことがあってもチャレンジしていこう、上を向いて歩こうということに繋がるかなと思うんです。叔父の生き方、もしくは叔父から聞いていた話、それから叔父が亡くなったあと叔母から聞いた話。やっぱり馬場家の皆さんって温かいんですよね。本当に馬場正平さん、ショーちゃんのことを大事に思っていらして。早くにお兄様が戦死だったり、お父様が召されても、お姉さま方が弟を思う気持ち。だから何があっても自分は三条のお家があるからチャレンジしていこうという思いになられたんだなというのを、すごく感じてはいたので。ただその中で今、いろいろな意味で忙しくなったり経済的にも大変だから共働きが当然でもあったり。そうすると母と子の接点も少なくなっているので、絵本というところで母と子の1つのきっかけにもなっていただけたらというのがあります。あと東京にいるというのもあるかなと思うんですけれども、『結婚する相手を見つけるのにハイスペックな人を探す』という言葉を耳にしたときに、「スペックで人を見るんだ」というのもあったので。やはりこれからの子供たちが成長していく日本は、私たち昭和30年代前半の生まれたものがこれだけの道幅だったとして、昭和終わりから平成の子供たちはこれくらいの幅になり、令和に出生した子供たちはこれくらいの幅になっているかと思うんです。そのときにタフに生き抜いていくということを、いかにこの絵本を通して伝えたいか。あとやはり大谷翔平さんとかサッカーのいろいろな方々ということにおいて、絵本を手にするお母さまたちってサッカーとか野球とかフィギュア、将棋というものは子供たちにさせたいという職業でもあるかなと思うんですけれど、プロレスラーというのは絶対的にと言っていいほど嫌な職業にもなるかなと。
※写真提供:株式会社H.J.T.Production
――やっぱりお母さんの立場からすると、絶対嫌ですよね。
理咲子さん そうそう。お金儲けできそうにないし、とかね。そういうのがあるので、プロレスというのは自分の人生を生きていく職業の1つでもあるので、生き方。プロレスを通して自分の人生を、コンプレックスになるものも強みに生かしたりというところにもフォーカスしていただけたらいいなという風に思ってはいます。
――この絵本を読んで改めて思い返すと、馬場さんが海外武者修行に行かれた当時のことを考えると、日本人に対する差別みたいなものが極めて厳しい時代を、ヒール、悪党としてリングに立ち続けて、そこで自信と名声を手に入れたと思うんですよね。今の時代と全然違う環境として、フィールドは違いますけど、大谷翔平選手なんかはメジャーリーグで本当のスーパースターで、世界でもナンバー1と言われるくらいのプロ野球選手になりました。当時でいうと馬場さんがプロレス界においては全米で活躍した日本人を代表する選手というところになっていたと思うので。そういった部分も感じてほしいと感じました。ちなみに公俊さんは馬場さんを絵本にしたいという気持ちを伺ったときはどんな思いだったのですか?
公俊さん 絵本というか、私自身は2018年に馬場元子から「ジャイアント馬場」の権利を引き継いでという部分で、今後未来に馬場さんの名前を残していくというのが私の使命、会社の使命というものがあった中で、どういう風にしていけば伝わるかなと。実際、馬場さんが亡くなったのが自分が小6のときなので、すなわち自分より下の人ってなかなか馬場さんを知る機会がなかったと。そういう中でいかに子供に伝えるかということで絵本だったりアニメだったり、そういう形が1番伝わりやすいのかなという部分で、今回絵本というお話をいただいたのはとてもありがたいなと思って。先ほど母も言った通り、親を通して、祖父母を通して、お孫さんとかお子さんに知っていただければなと思っております。
――馬場さんの足跡を知ってもらうというところと、なぜ今のプロレス界があるのかというところにも繋がってくると思うので。大人の50歳過ぎた私がこれを見ても、馬場正平・ジャイアント馬場さんを改めて知るキッカケにもなるので。往年の馬場ファンの皆さん、大人の方にも響くんじゃないかなと思いました。
公俊さん 絵本で絵があるので余計に頭に当時のことをイメージしながら、それはそれで面白いですし。あとは巻末には写真付きの年表も載っていますので、それで振り返ったりする機会があると。大人の方もぜひ、お孫さん、お子さんいるとか関係なしに読んでいただきたいなと思いますね。
――帯でスタン・ハンセンさんも『ジャイアント馬場は決して戦いを諦めなかった。その背中は大きくて、そして誰よりも優しい人だった。』と書かれているように、本当にそのままなんだろうなと思いました。往年の馬場ファンの皆さんにも、改めてジャイアント馬場さんという存在を思い出して頂けたらなと思いました。
③理咲子さんから見た叔父・ジャイアント馬場さんはどんな存在
――そして理咲子さんから見た叔父・ジャイアント馬場さんというのは、出会いは叔父さんという感じだったと思うんですけど、接していく上でだんだんジャイアント馬場というプロレスラーの偉大さというのが分かってきたんじゃないかなと思いますが、その辺りはいかがでしたか?
理咲子さん 先ほど公俊が申しましたように馬場さんは新潟ですし、元子の方は兵庫県出身なので、この東京エリアにそんなに親戚って多くないんです。うちの元々の家族がずっと、学校が東京だったので。というところで、それこそ私が子供で孫みたいな存在ではあったので、本当に叔父で。叔母がジャイアントサービスという会社をやっていましたでしょう。そのときに1番初めの名刺って河合元子なんですよね。叔母がアメリカに行っているときに、私がまだ小学校の頃、クリスマスだったりするとアメリカからプレゼントの箱が届くわけですね。その当時、小学校なんていうと今から60年近く前の話ですから「こんなものがあるんだ。こんなに綺麗なものがあるんだ」とときめいていて。お礼状もちゃんと叔母に書いているわけです。叔母の筆跡って結構特有なんですね。同じ筆跡なのに途中から、伊藤元子から河合元子と変わったときがあって。母に「どうして元子おばちゃまは河合元子に変わったの?」と。母がそのときに『いや、筆跡は似ているけど違う方よ。代理で誰かが送ってくださるようになったのよ』と言われたのが、私も小学校高学年だったのですごく不思議で、何が起きているんだろうと。だんだん大きくなるにつれ、そんなに仲がとても良い両親じゃないのに、時折2人で肩を寄せ合って女性誌を見ているわけです。妹と「パパとママ、何をやっているのかしらね」と。こっそり「ママがどこに隠すか見ていよう」と。
――あとで見ようと。
理咲子さん そうそう。で、しわしわになったページを開くと、たぶん『明石の何とかで』。「これってもしかして元子おばちゃまのこと?」みたいなことがあったんです。でも聞いちゃいけないし言ってはいけないと。14歳だったときに学校が四谷だったので赤坂に住んでいる叔父と叔母の家も近くて行くようになって、学校の帰りに『六本木の事務所にいらっしゃい』と言われて『あなたの叔父さんよ』と紹介されたのがきっかけだったので。だから本当におっしゃっているように叔父としての出会いなんですね。そのあとプロレスの会場には行きますけど、小さすぎて。NWAのコンベンションにラスベガスにも連れて行ってもらいましたけど小さすぎて、プロレスというものにあまり触れていないんです。私の場合は。
――ちょっとした旅行みたいな感覚になるんですかね。
理咲子さん そうなんです。たぶんその叔母のことがあるからだと思うんですけど両親が、今思えば、同じ世代の女子の中でも絶対的にプロレスなんて見せてもらえたことがなかったので。だから全然分かっていないんですよ。だから力道山さんというのも知らなかったですし。それくらい我が家からはタブーだったと思うんです。というところで「えー、そうなんだー」という感じからスタートして。
――馬場さんを見られたときってインパクトすごく大きくなかったですか?
理咲子さん でも叔父なのでないんですよ、そういうインパクト。「あ、この方、叔父なんだ」と。
――やっぱり叔父という頭で最初入っちゃうんですね。
理咲子さん そうなんです。それで「こんにちは、初めまして」ということだけだったので。大学卒業して社会人になるときに両親が最後の転勤でまた東京からいなくなったときに、結婚までは恵比寿の家にずっと居候していたので、まだ家電しかないとき『あなたの家に電話をかけると叔父ちゃまが『(低い声で)もしもし』と言ってみえてびっくりするのよ』なんて。そんな普通の叔父です。そんな感じでした。ただ深夜になって、ノートがあるんですけどカードを考えておられたり。声かけられないなとか。そういうときはすごくナーバスだったり。叔母が声をかけても『ちょっとうるさい』的なことがあったり。穏やかだけど、プロレスということにおいていかに、ということはすごくあるんだなと。
――やっぱり社長レスラーとしていろいろなもの、団体やレスラー、社員やお金の部分も考えないといけなかったから余計に大変なときもあったと思います。公俊さんから見てジャイアント馬場さんというのはどんな存在ですか?
公俊さん 最初、自分はジャイアント馬場というよりは馬場正平。自分は「大きいじぃじ」と呼ばせていただいたんですけど。お家に行くと遊んでいただいたりしたんですけど、逆にジャイアント馬場と感じたときは小さい頃、会場に行かせていただいたときにちょうど馬場さんがウォーミングアップをしていたので、いつもの感じで「大きいじぃじ」と声をかけようと思って近づこうとしたんですけど、その瞬間、何か怖いオーラというか殺気じゃないけど、そういうものを感じて。
――近寄りがたいようなオーラ。
公俊さん そうです。自分は4、5歳なんですけど、そのときに馬場正平からジャイアント馬場に変わった瞬間なんだなと思って。
――肌で感じたんですね。
公俊さん オンとオフじゃないけど、そういう変わった瞬間を感じたときで、何かこれは近づいちゃいけないなと思って。表情も、やっぱりいつも優しい笑顔な馬場さんなんですけど、全然。今すぐ戦うぞ、じゃないけどそういう顔をされていて、もう近づけないなと。30年以上前の記憶になりますけど、それをいまだに覚えています。
――やっぱり戦いに行く気持ちを幼心に感じたんでしょうね。
④昨年10月8日、元子夫人の又甥にあたる公俊さんが全日本プロレスでレフェリーデビュー
©全日本プロレス
――そして公俊さんが昨年10月8日に全日本プロレスでレフェリーデビューされました。正直、私もびっくりしました(笑)ご自身的にはどんなキッカケだったのですか?
公俊さん キッカケは、団体事情とかでレフェリーも少なくなった部分もあったりして。そんな中で『レフェリーをやってみないか』と木原さんに声をかけていただいて。木原さんもみんなにみんな声をかけるわけではないので、選んでいただいたことに感謝ですし、せっかく声をかけていただいたので、それはやってみようと。やってみないと分からない部分もありますし。自分自身もこのようにプロレス業界に携わらせていただいていて、自分の知見が広がればなと思って。リングに立つことによって、レスラーがどういうことをお客様に見せようとしているかだったり、なかなかリング上じゃないとお客様の表情を見ることはできないですけど、どういうときにお客様が笑顔になったり燃えているのかを見るきっかけになって。なかなかまだ余裕はないですけど、日々頑張ってやっておりますね。
――個人的にはちょっと嬉しい気持ちになりました。
公俊さん 本当ですか。
――僕からすると、驚きと同時に嬉しいなって。馬場さんの血縁関係の方がリングに入っているというのは、オーナーが変わってもある日の全日本プロレスを思い浮かべるというか。それはすごく思ったんですよね。
公俊さん デビューするキッカケという言い方は変ですけど、まだ京平さんが現役でいらっしゃったからという部分もあるかもしれないですね。京平さんは0歳、1歳くらいの赤ちゃんからのお付き合いで。言ってしまえば知り合いのおじさんみたいな感じの方だったんですけど、なかなか京平さんにこういう形で携わることもないなと思って。京平さんから直接指導いただけたというのは自分にとっては嬉しかったなと思いますし。今までずっと自分のことを公(きみ)くんと読んではいたんですけど、レフェリーになってから公俊と呼ぶようになったので、京平さんは京平さんで自分のことをちょっと弟子みたいに見てもらえたのかなというところもありますね。
――実際にリングでレフェリーデビューしたときって、どんな思いでしたか?
公俊さん いやもうデビューした日は真っ白でしたね。真っ白でしたし、あと自分はデビューですけど周りにいる方はもちろん選手だったのでその日の試合を全力で戦うわけです。周りのお客様は試合を見るために高いチケットを買って頂いているわけだから。どうにかしてご迷惑をおかけしちゃいけないと、迷惑をかけないことだけを考えてやるようにはしました。
――なるほど。お母様の立場からして、息子さんがレフェリーデビューしたことに関してどういう風に感じましたか?
理咲子さん 嫁といるときに『ちょっと話があります』と。『僕、レフェリーデビューすることに決めました』と。
――相談じゃなく決定報告なんですね。
公俊さん そうですね。言われてからそんなに迷いはなかったですね。
理咲子さん えーと思いましたし、デビューさせていただくことを聞いたときよりも私としては、山形大会の会場には伺っていませんけども、初めてのデビューの写真をあとで見たときに、大森さんを裁かせていただいているわけですよね。大森さんの手を上げさせていただいている。大森さんは赤ちゃんのときから公俊を知ってくださっている、というところから、大森さんを偉そうにも最後手を上げて。何が起きているんだろうと混乱もあったりとか。
――なるほど。そこを理解するまでにちょっと時間がかかったんですね。
理咲子さん そうなんです。ただ、やはり『大きいじぃじ、人として1番尊敬して憧れの存在。だから僕は全日本プロレスのレスラーになる』と言って。そのあとも『大きいばぁばを僕が守ります』と言いながらやってきました。でもラグビーをやったので横はがっちりしましたけど、身長が足りずということでレスラーになることは諦めました。ということがあるときから何十年も経ち、叔母がジャイアント馬場の権利は公俊に託すというところにおいて、この時代の流れの中でレスラーという立場ではないものの、レフェリーとしてリングに上がらせていただくという、ある意味夢を叶えさせていただいたことにもなるのかなという思いにおいては感無量になったり。いろいろな思いがありましたね。思わず「大きいじぃじ、大きいばぁば、公俊がレフェリーとして今日デビューさせていただきました」とか「大森さん、こんな風にしているんです」とか。叔母のホームでの話とか『私は公くんにやってもらいたいんだ』というのがわーっと走馬灯のように湧いてきた瞬間でもあったかなと。
――そういう部分ではやっぱり天国にいる馬場さんと元子さんが、そういう形で見守ってくれているんでしょうね。
公俊さん そうですね。笑ってくれてればいいんですけど(笑)
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⑤命日(1月31日)には毎年SNSでトレンド入りする馬場さん
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――そして馬場さんのご命日の1月31日にはいつもSNSを通じて“ジャイアント馬場”や“馬場さん”というワードがトレンド入りしています。SNS上で馬場さんの写真や思い出をアップしたりして、25年経った今もトレンド入りしているという状況をどういう風に感じますか?
公俊さん 純粋にありがたいですよね。なかなか20年以上経ってしまうと、どうしてもちょっと忘れられてしまいますけど。いまだに25年経ってもSNSで名前を出していただいて、しかもトレンド入りってなかなかすることはないと思うので、ありがたいと思います。それ以上にやっぱり25年経ってもこういう風にトレンド入りする馬場さんは、改めて偉大だったなと。自分がそのような使命を受けたことは本当にありがたく感謝をもって仕事をより一層頑張らなくちゃと励みになります。
※写真提供:株式会社H.J.T.Production
――トレンド入りって本当にすごいことです。理咲子さんはどういう風に感じますか?
理咲子さん やっぱり叔母がよく言っていたのが、叔父が亡くなったあと、フォルム的にもいろいろな意味においても真似がしやすい部分ってありますよね。だからたくさんの方がものまねをされるんですけれども、やはり叔母としてみれば馬場さんを今の36、7歳以下は知らないとなった場合に、このものまねで馬場さんを知ってもらうのはすごく悲しがっていたんですよね。なのでこういう風にその当時のリアルなことをSNSという便利な媒体を通して、ご存じない方にも知っていただくきっかけ。それを写真とかでも「こうだったんだ、実は」というのを見ていただけるということではすごくありがたいです。そういうことを能動的、主体的に発しようと思われていることは本当にファンの方々、ありがたいなという思いでいっぱいになります。
――なるほど。本当にそういう部分ではご命日の日にそういう形でいつも上がってくるので、懐かしい写真とか拝見すると、ああ、いいなと。今回、日テレさんも70周年記念の大会をやられるので、馬場さんのアーカイブを動画もアップされていて、ハンセン vs ジャイアント馬場、ブルーザー・ブロディ vs ジャイアント馬場、ラッシャー木村さんとのも上がったりしていて。そういうのを見ると、すごく昔のワクワクが戻ってきます。馬場・猪木というBI砲が強豪外国人相手に大立ち回りして、それを倒していくという姿に日本のプロレスファンは一喜一憂していたわけですよね。馬場さん以上にスケールの大きいプロレスってなかなか見られないので、そういった時代を噛み締めていた人たちがたぶん出したくなる。そういう存在なんでしょうね。
理咲子さん 本当にありがたいです。
公俊さん そうですね。25年というのは本当に四半世紀。
――やっぱりすごいなと改めて感じます。今まで頑張ってきてくれたマスコミの方々が、映像媒体も含めて、そういうのがあるということが後世においても馬場さんの偉大なる歴史が語り継がれていくんじゃないかなと思いました。
⑥馬場夫妻との当時のエピソードなど
――続きまして、当時の馬場夫妻とのエピソードなどいかがですか?
理咲子さん 前は結構、恵比寿の家にアメリカのレスラーの方々を呼んで、叔母が手料理を振る舞うということをよくしていたんですよね。だから本当にファンクさんたちとかハーリー・レイスさんたちとかが見えたときに、お互いすごく信頼関係があって、だからこそ楽しんでいる雰囲気。それこそアメリカのザ・レスラーという方々も一夫、一父になりファミリーとしてというのがあると、それは叔父叔母がそういう空気感を出しているからこそ皆さんも安心して見えるのかなとか。あとはやっぱり2人は子供もいなかったからこそというか、同じビジネスを最高のものにしようというのがありましたし、馬場さんがどんな思いで全日本プロレスを立ち上げて、長い間にはもちろんいろいろなこともありますし。そのときに叔母がすごくサポートしているなと、すごくそれは感じましたね。だから何しろ叔父がいい状態でいること、そこに叔母はいつも大優先。そうじゃないものは姪であろうと何であろうと『いい加減にして、馬場さんがどうなると思うのよ!』と叱られました。だからこそ叔母がいろいろな悪役も買って出た。そういうことがあるから叔父も叔母へ感謝していることもあったんじゃないかと。あと叔父はすごく繊細な人でもありますよね。絵も描かれますし。すごくナイーブでセンシティブなところもあるので。面白いなと思ったのは、2人で一緒に出かけるときに、もちろん男性の叔父の方が早く準備できていて、いつもの定位置に叔父が座っていて。『もうちょっと待ってください、急いでいます』と叔母が向こうで言っていて。『馬場さん、お待たせしました。さあ行きましょう』と言ったら、叔父の服装と叔母が自分が着ているものが合わないと思ったらしく『馬場さん、ごめんなさい。また着替えてきます』と言っていたくらい、2人で一緒にいることを全体としても美しくあろうというか、そういうことを考えていたかなと。
――もう1回着替えてくる、と言われたときの馬場さんの心境はどうだったんですかね(笑)
理咲子さん どうなんでしょうね。
――早よせいよ、という(笑)
理咲子さん これ以上、待たせるのかよと(笑)
――男性は結構早いので、女性はやっぱり化粧だとか、こだわりがありますよね。
理咲子さん でも叔父はネクタイ1本選ぶのにもすごくこだわりますからね。すごくおしゃれというか、こだわります。本当に。
――改めて年月が経って周りの皆さんのお話も伺ったりすると、いろいろなところから元子夫人が馬場さんを守っていたというところが、愛情の深さみたいなものをすごく感じました。そういった部分がジャイアント馬場という存在を2人で作り上げていた気がしますね。
理咲子さん そうかもしれませんね、本当ですね。
――ジャイアント馬場さんが当時、世界最高のNWA王者に就くことって、とてつもなく難しい時代だったと思うんですよね。日本人が天下を獲ったという部分だと思うんですね。大谷翔平選手がメジャーリーグで世界最高の選手だと言われたのと同じような偉業を、プロレス界においては実は馬場さんが達成されていたというのが、僕はそれは改めてすごい功績としてみんなに知ってほしいなと思います。
⑦出版記念特別イベントにスタン・ハンセンさんが来日
――そして今回、出版記念特別イベントにスタン・ハンセンさんが来日されるということで、どんなイベントになりそうでしょうか?
公俊さん 3月10日に伊豆市の市民文化ホールで出版記念イベントを行うんですけど、2部構成となっておりまして。1部では馬場さんとの出会いでしたり、ご自身のレスラーとしての振り返り。2部に関しては家庭人としてスタン・ハンセンさん。旦那さん、お父さん、そして今、祖父となられて。現役時代に、全日本プロレスで1か月以上巡業で、日本人の奥様ユミさんを日本に残しておられたという部分で、そのときにどんな旦那さんであったり、息子さんから見てどんなお父さんだったのか。今回、奥様のユミさんや息子さんのシェーバーさんもいらっしゃるので一緒に出ていただくことになりました。
――公のイベントに奥様やご子息が出られるのは、もしかして初めてでは?
公俊さん そうですね。どうしても今までレスラーとしてのハンセンさんということが多いと思うんですけど、親子で出演されて、どんなお父様だったのか。お父さん、息子の共演であるので嘘をつけないと(笑)。そういうちょっとオフな1面も知るきっかけになるのが、なかなか面白い内容になっておりますので。
――そういう部分は全国のファンの人たちも聞きたいような内容になりそうですね。ちなみにハンセンさんの奥様が日本人だということを一部の方はご存じだと思いますけど、殆どの方はあまり知らないとおんぃますが、ハンセンさんは日本語は全然しゃべらない感じですよね?
公俊さん 日本語はそうですね。日本にお住いの時期もあったんですけど。長男とか、昨年次男の方もいらっしゃったんですけど、何となく分かったりとかはあるんですけど。ハンセンさん自身は全然。
――ハンセンさんはあれだけ長い間日本を主戦場にしていましたが日本語は、全然聞く機会がありませんでした。
公俊さん そうですね。ドリー・ファンクJr.さんとかは結構日本語、スピーキングはできないですけど聞いたりとかは何となく分かったりするんですけど、ハンセンさんはそこまで。
――そういうハンセンさんが今回のイベントもそうですし、他にもいろいろなイベントにも出られます。ハンセンさんの人生も振り返られるイベントになるということで非常に楽しみだなと思います。
⑧皆様へのメッセージ
※この時、馬場さんの膝の上にいるのは公俊さん
――では最後に今回の出版記念、ジャイアント馬場さんの偉大なる足跡を改めて知ってもらうための絵本でもあると思いますので、ファンの皆さんにメッセージをお願いいたします。
公俊さん 今年がジャイアント馬場没25年という節目の年でもあるんですけど。絵本を出版することができて、本当にいろいろな方にご協力いただいて感謝しております。絵本を通して、先ほどお話をしましたけどお子様だったり、あと大人の方も振り返ったりとか。なかなか馬場さんを知っていてもプロレスラーで止まっている方も多いと思うので、そういった方々もぜひ読んでいただいて、馬場さんはこういう人生だったんだよと。体が大きいから全部うまくいったというわけでもないですし。新潟県三条市という田舎から生まれて世界のヒーローになられた方、こういう人生を歩んできたんだという部分をぜひとも知っていただければ。そして1人でも多くプロレスに興味を持って会場に足を運んでいただければ嬉しく思います。
――ありがとうございます。では理咲子さん、お願いいたします。
理咲子さん まずこのタイトルにさせていただいていますように、『うえをむいてあるこう』。みんな、いろいろなこと、今は特に負荷がかかることも多かったりストレスも多い時代ですけれども、まさにそうであったとしても上を向いて歩こう。最後の裏表紙のところには上を向いて歩こうの歌詞も載せていただいているので。本当に何かがあったときに上を向く。そしてジャイアント馬場、馬場正平さんが作り上げた全日本プロレスの「明るく楽しく激しいプロレス」ということにおいて、まさに自身の人生も明るく楽しく激しく生きられたかなと思うので。私たちもこのジャイアント馬場、馬場正平という1人の生き様を通して、自分たちもできれば常に明るく楽しく激しく生き、何かあっても上を向いて歩いていきましょうと。プロレスファン、そしてこれからプロレスファンにおなりくださる方も、絵本を通して、初めて知った方にもそういう風に感じていただけたらいいなと思います。
――本日は素敵なお話をありがとうございました。
公俊さん ありがとうございました。
理咲子さん ありがとうございました。お世話になりました。
インタビュアー:山口義徳(プロレスTODAY総監督)