ビクトル・エリセの“映画愛”がつまった驚くべき傑作 『瞳をとじて』が語りかけること

テレンス・マリック監督やレオス・カラックス監督、はたまたユーリ・ノルシュテイン監督のように、多くの観客や批評家、そして他の映画監督らの支持を受ける圧倒的な作品を撮りながら、その後、寡作となったことで、伝説として語られる映画作家がいる。その代表的な人物の一人が、スペインのビクトル・エリセ監督だ。

繊細に世界や人間をとらえていく作風によって注目を浴びながら、『ミツバチのささやき』(1973年)、『エル・スール』(1982年)、『マルメロの陽光』(1992年)と、ほぼ10年おきに長編を撮ってきた希少性が、さまざまな世代におけるエリセ監督への憧憬をより強めてきた。そして、最後の作品からおよそ31年ぶりという最大のブランクを経て、ついに彼の“神話”が更新されたのが、新作『瞳をとじて』である。

しかし、一方でわれわれは“現実”の厳しさを知っている。80代となったエリセ監督の、この垂涎の長編に対し、長い年月のなかで膨れ上がった期待をかけるには、あまりにも負担なのではないかという危惧を覚えるのも道理である。しかし、そんな不安を描き消すかのように、本作『瞳をとじて』は、“映画”への愛情が濃密につまった、驚くべき傑作であった。ここでは、不思議な魅力とエモーショナルなメッセージを放つ本作が、どのような映画であるのか、何が素晴らしいのかを、じっくりと解説していきたい。

主人公となるのは、海辺に暮らす70代の元映画監督ミゲル(マノロ・ソロ)。彼は22年前に『別れのまなざし』というタイトルの映画作品を撮影していたが、親友だった主演俳優のフリオ(ホセ・コロナド)が、撮影のスケジュールの途中で失踪するという、ショッキングな事件に見舞われていた。海を望む岸壁にフリオの靴が置かれていたことで、自殺の可能性も濃厚であったが、真相はいまだに分からないままだ。映画は未完成の状態でひっそりと公開され、それからというもの、ミゲルは小説家に転身して年を重ねていた。

そんなミゲルは、生活費のために未解決事件の謎を追うTV番組に出演し、過去のフリオの失踪や、自分との関係を証言することになる。事件を思い出し、記憶を呼び覚まされたことで、彼は都会から海辺の町に帰っても、当時の思いにとらわれ続けることになる。そんなある日、なんとフリオらしき人物が高齢者施設で働いているという連絡を、ミゲルは受けることとなるのだ。

このミゲルの物語に投影されているのが、ビクトル・エリセ監督自身だと考えるのは、不自然なことではないだろう。映画から長い間離れ、「長編を書くには覚悟がいる」と、小説を書くことも大義となってしまった元映画監督の姿は、寡作であるエリセ監督のパブリックイメージに近いものがある。

また、エリセ監督が愛する映画作品や映画作家の名前も、物語のなかでさまざまに登場している。ニコラス・レイ監督と『夜の人々』(1948年)。カール・テオドア・ドライヤー監督と『奇跡』(1955年)。リュミエール兄弟の『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1896年)。『チャップリンの殺人狂時代』(1947年)……。きわめつけは、ハワード・ホークス監督の傑作西部劇『リオ・ブラボー』(1959年)における、ディーン・マーティンとリッキー・ネルソンらの「ライフルと愛馬」歌唱シーンを、臆面もなく本作の劇中で再現してすらいる。これら映画史の断片が、ビクトル・エリセという監督本人の輪郭を、情動的と言っていいほどに素直になぞっているといえる。

そして、映画冒頭で映し出される、主人公ミゲルが過去に撮っていた映画『別れのまなざし』の一部分が垣間見せる内容も、エリセ監督が過去に撮ろうとしていたという、アルゼンチンの幻想的な小説家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編探偵小説『死とコンパス』を想起させる内容となっている。フランス語で「悲しみの王」を意味する「トリスト・ル・ロワ(Triste le Roi)」と名付けられた邸宅が舞台となるところから、その繋がりは明らかだ。

その小説のなかには、本作の「悲しみの王」の庭に置かれ、アイコンともなっている「ヤヌス像」も登場している。「ヤヌス」とは、ローマ神話に登場する神であり、前後に二つの顔を持っていることが特徴だ。その顔はそれぞれに“過去と未来”に向き、“視線”が重要な要素となっている本作の“始まりと終わり”に登場するというのは、象徴的である。

このような小説と映画との関係が、エリセ監督自身が完成させることができなかった悔恨の作品に重ね合わされていることは言うまでもなく、同時に主人公とエリセ監督との同一化を、より強めているといえるのだ。そう考えれば、ミゲルが自分の半生を顧みる本作の内容は、エリセ監督自身の半生をめぐる物語だと解釈することが可能になるだろう。

興味深いのは、失踪した俳優フリオが若い頃、ミゲルとともに水兵の格好をして並んでいる写真が象徴するように、この二人もまた、よく似た存在だとして描かれているところだ。海の近くに住み、並んで浜辺を見つめる姿からも、ある種の“分身”として表現されていると思われる箇所がある。そのように考えれば、この登場人物たちは、エリセ監督自身の姿が分離した、“二面の「ヤヌス」”だともいえるのではないか。

そう考えられるのは、フリオの娘であるアナの役を演じているのが、『ミツバチのささやき』に子役として出演していた俳優アナ・トレントであるからだ。半世紀のときを超えて50代となっている彼女は、ビクトル・エリセ監督が見出した俳優であり、そこには映画を介した職業人としての擬似的な親子関係があるものと類推される。「アナ」という名前で繋がれたメタフィジックな関係は、フリオとビクトル・エリセ監督をも間接的に繋げることができるのだ。

過去と未来を向いた「ヤヌス像」は、“若さ”と“老い”の象徴でもある。劇中に登場した、フランスの小説家ポール・ニザンの有名な書き出し、「僕は二十歳だった。それが人の一生で最も美しい時代だなんて、誰にも言わせない」という文句は、“若い時代は薔薇色ではない”といった、もともとの意味を持っているが、本作全体を振り返ったとき、“老いること”、“古くなること”に対する世間の消極的なイメージに対する、一種の反発として響いてくるところがある。

ミゲルは失踪事件の真相を、事故でも殺人事件などでもなく、フリオ自身の意志によるものだと直感していた。かつて二枚目俳優として数々の女性と浮き名を流していたフリオは、『別れのまなざし』が撮影されていた時代には、“若さゆえの美貌”がほぼ消え失せたタイミングであった。だからこそ、“美”こそを自分の唯一の価値に置いていた彼は失踪し、この映画を完成させないことで、映画の中の美しい自分を永遠のものにしようとしたのではないかと。その意味でいうとフリオは、古さや老いを忌避しがちな世間の価値観を引き受けながら、一方では映画が持つ魔術的な力というものを信じている存在であるともいえよう。

ミゲルの方はどうかというと、“映画の力”を信じられなくなってきている。彼が小説に活躍の場を移したように、多くの媒体が存在し、配信ドラマやゲームなど媒体が増え続けている時代のなかで、映画そのものの価値は、少なくとも世間の価値観においては小さなものになってきているのが事実だろう。だからこそ、ミゲルは小説のタイトルを「廃墟」と名付けたのだと考えられる。

そんな「廃墟」が具体的に映し出されるのが、スペインの田舎町の閉鎖された映画館であり、ミゲルのもう一人の親友であるマックスの持つ、フィルム保管庫であろう。全ての映像がデータに変換できる技術が開発されたことで、「映画フィルム」という、フィジカル(物質的)なかたちでの映画の存在意義は、揺らぎつつある。実際、現在ではデジタルの媒体に映像を記憶させ、デジタル機器で読み取って上映することで、撮影でも上映においても、フィジカルを介さないシステムが当たり前となっている。

そんな時代背景のなかでミゲルは、“最初期の映画”である『ラ・シオタ駅への列車の到着』を、なんとパラパラ漫画の要領でめくってみせる。「映画フィルム」が“写真の連続体”であることを考えると、映画における媒体の始源が、ここで描かれたことになる。この描写は紛れもなく、「映画とは何なのか」ということを、あらためて考え直そうという意図の提示であるだろう。そしてそれは、自分自身が本作のなかで映画を定義し直すという、途方もない宣言であったのかもしれない。エリセ監督は、本作をあえてデジタルとフィルム両方で撮りあげているが、それは“映画本来の力”を本作で明確にするための試みであったように感じられる。つまり、デジタルに移行している点が、むしろ“フィルム志向”ゆえなのではないか。

ミゲルは本作の終盤において、“映画の力”に再び賭けてみようとする。カール・テオドア・ドライヤー監督が『奇跡』において衝撃的ともいえる“聖なる瞬間”を表現したように、ある「奇跡」を起こすため、わざわざフィルムを用いて、自作の上映を試みるのだ。映写を引き受けたマックスが声をかけるように、まさに「映画を信じる者」として。

本作のラストでは、『奇跡』のような決定的な場面は用意されない。それは、ミゲルの人間性に投影されているように、ビクトル・エリセ自身が、“映画の力”を信じられなくなった時期と、信じたいという気持ちが混在しているからではないだろうか。だからこそ、その行方を、スクリーンを見つめるわれわれ観客に委ねていると感じられるのである。その意味でいうと本作は、映画館で観なければあまり意味のない、現在では稀有な作品となったといえるだろう。

だがエリセ監督は、結論をぼかしているようでいて、自分なりの「映画とは何なのか」という疑問に対する答えに、たどり着いているように思えるのだ。それはまず第一に、本作が全体で描いてきたように、映画を撮る側の人間にも、映画を観る人間にも、心が存在するという事実があるということだ。映画そのものに魔術的な力があるのかは、いまのところ誰にも証明できない。しかしわれわれ観客は、、そういったものがあると信じ始めたミゲルの姿を観ることで感動することができる。正確には、ミゲルの演技に託したエリセ監督の映画に対する信仰心に心打たれるのである。

もちろん、こうした作り手と受け手の関係というのは、映画に限った話ではない。だからこそ、エリセ監督は劇中に映画館を用意し、フィルム上映の機材を用意し、客席に座った観客たちとスクリーンに映る世界を周到に用意している。映し出されるのは、いまよりも若いフリオと、中国からやって来たという設定の少女(ベネシア・フランコ)の顔だ。そしてその視線は、観客に対して向けられている。現在のフリオは、過去のフリオと時間を共有し、お互いに知らないはずの自分と邂逅することになる。これこそ、映画だからこそ生み出すことができる構図なのではないか。

われわれは「ヤヌス」のように、本作を通して、二つの時代を見つめている。そして、映画という文化が残り続ける限り、また映画館で登場人物たちと再会し、客席で視線を交わし合うことができるかもしれない。そして、ミゲルやフリオの姿を通して語られる監督の心情にまた触れることができる。その仕組みの中において、彼らは“永遠”となり、われわれもまた永遠の瞬間を垣間見るのである。「それこそが映画であり、映画の“奇跡”である」と、本作『瞳をとじて』は、語りかけているのではないだろうか。

(文=小野寺系)

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