「生理は、ただ血が出るだけじゃない」 競泳元日本代表・伊藤華英さんが女子アスリート指導の検定に込めた思い

女性アスリートの生理などの健康課題について、指導者として必要な知識を問う「1252公認 女子アスリートコンディショニングエキスパート検定」が創設された。

トップアスリートの指導者から、学校教員、保護者、アスリート本人まで女子スポーツ関係者に広く知識を身につけてもらうことを目的に、月経の仕組みや必要な栄養、適切なコミュニケーションなどさまざまな分野の専門性を高めた内容になっている。

検定をリリースした「1252プロジェクト」(一般社団法人スポーツを止めるな)のプロジェクトリーダーであり、競泳元日本代表の伊藤華英さんに、検定創設の背景となった課題や、男性指導者の適切な接し方、検定の広がりに期待することについて聞いた。

“タブー視”されていた生理の話題を発信した理由

2008年の日本選手権・女子100メートル背泳ぎを日本新で制した伊藤華英さん(左)

幼少期から水泳を始めた伊藤さんは、2008年の北京オリンピック選考会の日本選手権女子100m背泳ぎで日本記録を樹立し、初めてオリンピックの代表に選出された。だが、オリンピック開催の3ヵ月前、競技日に生理が重なることが分かった。生理日をずらすため、婦人科で初めてピルを処方してもらったが、副作用で体重が5キロ近く増えてしまい、思うような泳ぎができなかった。

「北京のときは生理の知識がなく、当時はホルモンの量が多い・少ないとか、ピルとはどういうものなのかを理解せずに飲んでいました。もっと時間をかけて準備しておけば、選択に覚悟を持って競技に向き合えたと思います。当時はピルに対して『妊娠を抑えるもの』というイメージしかなく、ドーピングなどの不安もありました。ピルを飲んだことを後悔しているのではなく、自分自身で選択をする知識がなかったことが『失敗』だったと思っています」

振り返れば、中高生の頃からPMS(月経前症候群)のような症状もあった。だが、当時のスポーツ界、社会でも月経にまつわる知識は浸透しておらず、自身の身体の状態を把握できないまま、不安を抱えて競技に臨むこともあったという。

「生理が近づいてくると、急に体重が増えてイライラしたり、自分はライバルに勝てないかもしれないと落ち込んだり……でも、当時はPMSという概念も知りませんでしたし、”生理の痛みは我慢するもの”だと思い込んでいました」

生理は人に言うものじゃない。その考えが大きく変わったのは、現役引退後の16年リオデジャネイロ五輪での出来事だった。競泳の中国代表・傅園慧(フ・ユアンフイ)選手が「生理中でいい泳ぎができずチームメイトに迷惑をかけた」と語ったことに、衝撃を受けた。

「生理って、言っていいことだったんだ」

五輪からおよそ1年後の夏、伊藤さんは現役時代の生理の悩みを1本の記事に綴った。初代表に選ばれた16歳の頃からPMSの症状に悩んでいたこと、生理痛や過多月経に苦しんでいる女性アスリートが少なくないこと……。当時は生理について発信するスポーツ関係者はほぼおらず、伊藤さんの記事は多くの反響とともに受け止められた。

若いアスリートに生理の知識を広げたい――。伊藤さんは2021年3月に「1252プロジェクト」を仲間とともに立ち上げた。「1252」とは1年間52週のうち、生理が訪れるのは約12週との意味。スポーツと生理の正しい知識や情報を届けるため、中学や高校、大学、スポーツクラブなどに出向いて授業やオンライン発信を重ねてきた。

「生理を相談できる“専門家”が身近にいない」プロジェクトで感じた課題

「生理とスポーツ」に関するシンポジウムに登壇した伊藤さん(中央)[大学スポーツ協会提供]

伊藤さんが約3年間、出張授業や講演会を重ねるなかで見えてきた課題がある。それは女性アスリートの近くに、生理などの健康課題を相談できる“専門的な存在”がいないことだ。

1252プロジェクトが実施した運動部所属の女子学生へのアンケートでは、月経の悩みについて相談できる相手の第1位は母親で54%、第2位はチームメイトで31%だった。相談しない・できる相手がいないとの回答は30%近くにのぼった一方、チームの監督やコーチへの相談は2.6%にとどまったという。

「私自身、母に相談することもありましたが、『女の子はみんな来るものだから』『生理の話は人前でするものじゃない』と言われて育ってきました。意外だったのは、男性指導者だけでなく、女性指導者にも言いづらいという声があったことです。指導者自身が生理を経験していることで、もし相談した相手の症状が軽かったら『それくらい我慢すれば大丈夫と言われるのでは』という相談もありました」

これまで出張授業の場で、指導者や教員からは「もっと生理について学んでいき、子どもたちとコミュニケーションを取っていきたい」という前向きな声も挙がっていたという。ただ同時に、「どこで知識を得ればいいのか分からない」という悩みも寄せられていた。

「プロジェクトでは女子学生アスリートにむけてさまざまな取り組みを行ってきましたが、特に10代の学生たちは自分自身で婦人科受診やピル服用を選択するのは難しく、まだまだ大人の存在が必要な時期だと思います。そういう意味では、指導者をはじめ、周りの月経リテラシーが高まらないと、子どもたちは実際の行動に移せないのではと感じます。

たとえば生理痛は病気ではないと言われますが、中には月経困難症という診断名がつき、治療として、低用量ピルを服用している学生もいます。しかし、何も知識がない指導者が『避妊薬を飲んでいるの?』と理解してしまい、コミュニケーションもままならないまま、その学生の理解をミスリードしてしまう可能性もあります。また、お母さんと婦人科に向かうエレベーターに乗っていたら、同乗した方に『若いのに妊娠したの?』と言われた学生もいるそうです。

彼女たちが安心して相談できる環境を整えるには、相応の知識を身につけた『大人』の存在が必要ではないかと考えました」

女性アスリートが生理などの健康課題を相談できる“大人”を増やしていきたい。そんな思いから、「1252公認 女子アスリートコンディショニングエキスパート検定」が創設された。

さまざまな観点から「生理」について紐解くテキストブック

女子アスリートコンディショニングエキスパート検定のテキストブック

検定のリリースにあたり、女性アスリート指導の基礎知識をまとめたテキストブックも出版された。

テキストは、女性特有の月経課題を中心に、①女性アスリートのスポーツ環境を正しく知る基礎データ②医学③運動生理学④栄養学⑤アンチ・ドーピング⑥コンディショニングやケア⑦コミュニケーションの7つの観点から生理にまつわる正しい知識の習得を目指すものだ。

元々は“月経リテラシー”を高めることを目的としていたが、月経の基礎知識や月経困難症といった生理の話にとどまらず、ジェンダーの歴史からドーピング、ハラスメント予防のコミュニケーションまで、さまざまな領域を網羅しているのはなぜだろうか。

「これまで月経の教育を続けてきたなかで、現場の先生たちの悩みを聞けば聞くほど、生理の話だけでは解決できないことが多いと感じていました。たとえば、利用可能エネルギー不足による無月経の場合は、食事や栄養の指導が必要になります。試合前にピルや鎮痛剤を服用するなら、ドーピングのことも考えなければいけません。また、選手たちの身体の状態を把握するには、指導者の適切なコミュニケーションが重要です。生理について正しく理解して行動するには、それぞれのテーマを網羅的に学んでもらう必要があると思いました」

テキストブックには、女性アスリートの婦人科問題に取り組む産婦人科医の能瀬さやかさんをはじめ、国内を代表する40人以上の専門家が監修に加わった。また、ハンマー投元日本代表の室伏由佳さんらの座談会も収録し、女性アスリートを取り巻く環境への提言や当事者の実体験を通して、さまざまな観点から「生理」について学びを深める一冊になっている。

「生理は月に1回、血が出るだけじゃない」指導者に伝えたいこと

自身の現役時代の経験を振り返りながら、月経の課題について語る伊藤さん

テキストブックのなかで主軸のひとつに据えられているのが、「女性アスリートとのコミュニケーション」。女性アスリートの健康状態を把握するうえで、特に男性指導者からは「生理について聞くことがセクシャルハラスメントになるのでは」との不安も寄せられている。

しかし、指導者に占める男性の比率が高い現状では、男性指導者が女性アスリートを指導するケースは多く存在する。指導者はどのように教え子の生理と向き合うべきなのだろうか。

「もちろん男性指導者でも生理周期を把握しておくべきですが、いきなり『今日生理だから辛いの?』と聞かれたら戸惑ってしまいますよね。月経は女性にとってデリケートなもので、口頭で伝えることには抵抗感を覚えるアスリートも少なくありません。おすすめしたいのが、コンディショニングノートやスマホアプリなど間接的な手段で共有することです。

彼女たちの状態をしっかり知っておくことで、たとえば調子が悪そうなときに『なんでそんなにやる気がないのか』と叱責したり、『体重が増えているから痩せろ』と言ったりする前に、生理中でコンディションが悪いのかもしれない、と思いとどまることができます。そうしたコミュニケーションが、指導者とアスリートの信頼関係につながっていくはずです」

伊藤さんの発信を皮切りに、近年はさまざまな種目のアスリートや元現役選手が自身の体験について語るようになり、アスリートと生理の関係性についての理解は広がりつつある。その一方、特に学生スポーツにおいては指導者と選手間に権力関係があり、生理について気軽に相談できないといった現状もある。

「生理は月に1回、ただ血が出るだけのものではありません。指導者が『一日くらい我慢しろ』と言い続けたことが、将来的に身体やこころに支障をきたす可能性もあります。選手をむやみに頑張らせることだけが指導者の仕事ではなく、痛みを和らげる手段や女性としてのキャリアを考えてあげることも必要です。アスリート自身がベストな選択をできるよう、指導者は支えてあげることが大切ではないでしょうか」

女子アスリートコンディショニングエキスパート検定は、基礎知識を網羅する2級、より専門性を高めた1級の2つの階級が設けられている。女性アスリートにとっては、身近にいる大人がこの検定に合格していることが、「この人になら話しても理解してもらえる」という”安心材料”のひとつになるのではないだろうか。

「月経を理解して指導に生かすには、これだけの側面が必要だということをまず知ってもらいたい。検定自体も広まってほしいですが、本当に大切なのはその中身を生かせる人が増えることだと思っています。検定を受けて終わりではなく、その先の皆さんの生活のなかで、検定で得た知識を生かせる場面が増えていくことを願っています」

《女子アスリートコンディショニングエキスパート検定》

開催日時:2023年度第1回 2024年3月1日〜14日(2級のみ)

申込受付期間:2023年12月5日〜2024年3月8日

受検料:2級/8,000円(税込み8,800円)

受検方式:オンライン受験・インターネットに接続すればどこでも受験可能

・1252エキスパート検定WEBサイト:https://1252expert.com/

・コンセプト動画:https://youtu.be/977R7ooK9aw

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