「高岡発ニッポン再興」その133「人間尊重」の経営が復興にも

出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・「現場主義」と「人間尊重」を重んじる土光イズム。

・土光氏没から23年後の東日本大震災の復興にも大いに役立った。

・福島県相馬市にある相馬工場(IHI)は、2ヶ月で復旧した。

前回の連載では、「メザシの土光さん」、土光敏夫の本を書くきっかけとなったのは、東日本大震災だとお伝えしました。土光を調べ、共鳴したのは「現場主義」「人間尊重」です。それがリーダーにとって最も大切なことです。このことが、その後の私の職業人生、さらには現在の政治家としての考え方の土台になっています。

東日本大震災は土光が死去してから23年後に起きました。ところが、この土光イズムは、震災の復興にも大いに役立っていました

私は2011年春、その現場を見るため、福島県相馬市を訪れました。土光はかつて石川島の社長でした。今でいうIHI(旧石川島播磨工場)です。その相馬工場は民間の航空機のエンジン部分などを製造している世界的な工場ですが、被災しました。

この工場は福島第一原発から50キロほどしか離れていません。当初は復旧まで「1年かかる」と言われていましたが、現場の執念でわずか2カ月のスピード復旧だったのです。

私は当時、相馬工場の総務部長、久野賢史さんと会いました。

久野さんは「震災の日はみぞれ交じりの寒い日でした。ラジオで10メートルを超える津波がくる可能性が報じられました。海岸近くに住む従業員もいることから、とりあえず工場の外で待ってもらった」と振り返りました。

久野さんによれば、工場の建物自体は無事でしたが、機械装置がずれたりしました。ジェット機のエンジン部分は精度が高いだけに、機械装置が少しでもずれると、製造工程に深刻な影響が出ます。IHI本社からの支援も得て、不眠不休の復旧作業が始まりました。

「ジェット機のエンジン部品はオンリーワンのものが多い。復旧できないと、世界の航空業界に悪影響が出る。それは避けたいという使命感にも燃えた」といいます。震災から2週間後には、すでに1000人体制で復旧活動を行いました。

久野は「従業員を安心させないと、復興が進まない。家を流されたすべての従業員に社宅を用意した」と話しました。つまり、津波で自宅を流されたパート従業員にも、社宅を提供したのです。

スピード復旧した背景には、土光敏夫の存在があるといいます。キーワードは「人間尊重」です。パートの女性も、本社から来ていた社員も分け隔てなく、一致団結する現場力です。

相馬工場の源流をたどると、土光敏夫にいきつきます。土光は、終戦直後に航空機エンジンへの参入を決断しました。焼野原から立ち上がるには、技術的に最も困難だといわれる航空機エンジンの製造に力を入れるべきだと考えたのです。朝鮮戦争直後でした。

土光は社員を集め、「航空機エンジンに社運を賭ける」とアピールしたのです。机をたたきながら、話しましたが、力を入れすぎ、拳が血で赤く染まったといいます。

田無工場には、戦前海軍で活躍した技術者が集まりました。若手にチャンスを与え、大きな仕事を任せたのです。

その田無工場が手狭になったため、相馬工場が建設されたのです。つまり、土光イズムは田無工場、そして相馬工場に伝わったのです。どうしてスピード復旧したのでしょうか。私は当時の社長、釜和明さんに話を聞きました。

釜さんは「土光さんの時代から現場が生き生き働く風土がある。パートを含めた従業員を非常に大切するから、従業員は不眠不休で復旧のため働いた。土光さんの理念を引き継ぐことが大切だ」と強調します。

土光敏夫という1人のリーダーの存在は、その後の会社経営にも大きく影響しているのです。リーダーはいかに大事なのか。私はそれを痛感しました。

出町ゆずるホームページ

トップ写真:東日本大震災直後 放射線防護服を着た警察官らが津波犠牲者の遺体を捜索している様子(2011年4月15日 福島県南相馬市)出典:Toshifumi Taniuchi/Getty Images

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