『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』徹底解説 原作からの“脱構築”的試みを読む

高畑勲監督、宮﨑駿監督に続く、日本のアニメ界の巨匠・押井守監督。その代表作として、『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995年)に並ぶ名作といえば、それは『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984年)に他ならない。

日本漫画界の至宝といえる高橋留美子の代表作『うる星やつら』を原作にしながら、その世界観やテーマを大きく逸脱。奇妙で幻想的なテイストに魅了されるとともに、凄まじくすらある創造力の飛躍に心が揺さぶられる、誰も観たことがないようなものに仕上がっているのである。少なくとも、アニメや映画を一歩進んだところで楽しみたいと思っている観客や、サブカルチャー、オタク文化を深く理解したい人であれば、必修とまでいえる希少な作品なのである。

ここではそんな、映画界で燦然と輝く傑作アニメーション映画の代表作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の凄さが、いったいどこにあるのかを、できる限り深いところまで解説していきたい。

押井守監督は、もともと1980年代のTVアニメシリーズ『うる星やつら』のチーフディレクターを担当し、人気の盛り上がりに貢献している。このシリーズでは、才能豊かな高橋留美子のユーモラスなキャラクターやドタバタ劇の面白さを引き継ぎ、大勢の「ラムちゃんファン」をも生み出すこととなった。

2022年より、原作の描写に忠実な新しいTVシリーズが再び発表されているが、80年代版では、オリジナルの展開や楽屋ネタ、他作品のパロディなどが盛り込まれ、アニメーターたちのやりたい放題な表現が見られるエピソードが増えていった。いまなら多方面から怒られそうではあるが、そのカオティックな雰囲気は、原作のスラップスティックなテイストに接続できるものだったともいえる。

押井守は、同時期に映画版も引き受け、映画シリーズの2作を監督している。『うる星やつら』の映画版第1作となり、押井監督の実質的な最初の映画作品となった『うる星やつら オンリー・ユー』(1983年)は、押し迫ったスケジュールのなかで、突貫的な制作となった。スタッフの家族や親戚を連れてこさせてセル画の色を塗らせたり、最終的にはスタジオの外を歩いてる通行人を呼び止めて作業を頼んだという、およそ信じ難い裏話を、押井監督は後に語っている。

それでも劇場版第1作の内容は素晴らしく、ファンや原作者から賛辞を送られる作品となったというのは、驚きである。しかし一方で、商業的な枠にはまった保守的な内容だという批判もあった。それには、同時上映された相米慎二監督の『ションベン・ライダー』(1983年)の存在が影響している。アイドル映画的な枠組みをはみ出し、狂気すら感じられる長回しシーンなど、圧倒的に“映画的”な内容にショックを受ける観客や批評家、クリエイターが多く、『うる星やつら オンリー・ユー』は、その比較対象とされてしまったところがあるのだ。

その前提を踏まえると、続編となった本作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』は、押井守監督の、映画作家、クリエイターとしての覚悟のリベンジだったということが理解できる。鑑賞すれば、後の押井作品の核となる要素がさまざまに出現するのである。

物語の舞台となるのは、主人公の諸星(もろぼし)あたる、ラムたちの住む「友引町」。彼らが通う友引高校では、面堂終太郎や、しのぶ、サクラ、温泉マーク先生や、メガネをはじめとする「ラム親衛隊」など、お馴染みの騒がしい面々が、翌日に控えた「友引高校学園祭」の準備のため、学校に居残っている。

物語が進むことで観客は異様な思いにかられることになるだろう。その翌日になっても、登場人物たちは変わらず学園祭の準備をしているのである。その翌日も、翌日も、「明日は学園祭の初日」と言いながら、人々は疑問を抱かずに延々と準備をし続け、同じ毎日を繰り返しているのである。

そんな異常事態に、はじめに気づいたのは、生徒たちから「温泉マーク」と呼ばれている、中年の男性教師だった。彼は、巫女でもある保健室勤務のサクラ先生に相談をもちかけ、このループから外に出る方法を模索し始める。だが温泉マークは、突如として姿を消してしまう。

ラン、レイ、おユキや弁天、クラマや了子、つばめ、ラムの両親など、『うる星やつら』には多くの魅力的なキャラクターが存在する。だが本作では、あえて派手な印象の異星人たちの出番を封印し、ダークなトーンでサスペンスフルに進んでいくのが印象的だ。

人通りのない夜の街。シャッターの閉まった商店街。無人の電車やバス。生活の気配のない住宅地……。本作の舞台となる友引町は、騒がしいキャラクターたちがいない場所においては、あまりにも静かなのだ。近年、「リミナルスペース」と名付けられた、そのような無人で寂しい場所の独特な雰囲気を意識して楽しむといった行為が流行しているが、本作はまさに、それを自覚的におこなっている。

また、終太郎としのぶが、夜の住宅街をヘッドライトで照らしながら軍用車両で迷いつつ走っていくシーンは、映画『世にも怪奇な物語』(1968年)の一編である、フェデリコ・フェリーニ監督の「悪魔の首飾り」の描写である、テレンス・スタンプ演じる男が、フェラーリで深夜のローマの街を疾走する表現に酷似している。また、その作品に現れる不気味な白いワンピースを着た少女が、ともすれば本作の幻想的な少女のインスピレーションの基だったかもしれない。

このあたり、実写映画を浴びるほど観ていたという、押井監督の個性が突出している場面だといえるのではないか。また、ストーリー部分においても、同じ1日を繰り返す「ループもの」のジャンルの早い時期からの例として、本作は語られるはずである。

さて、友引高校から帰宅しようとしても自宅への道を見つけられないことで、いつものメンバーたちも、この世界の異変を察知することになる。大勢であたるの家に居候する事態に陥った面々は、終太郎が組織する「真相究明委員会」に参加することになり、面倒財閥所有の垂直離陸機「ハリアー」につかまって、友引町からの脱出を試みる。だが彼らは、そのとき信じられないものを目にし、友引町への帰還を余儀なくされることになるのだ。

それからいったい、何年が経ったのか。千葉繁が声優を演じるキャラクター、メガネは、荒廃してすっかり姿を変えてしまった友引町を眺めながら、「友引全史」と名付けた自著である歴史書、第1巻「終末を越えて」序説第3章を、炎天下のなか名調子で朗読していく。それは、「私の名はメガネ。 かつては友引高校に通う平凡な一高校生であり、 退屈な日常と戦い続ける下駄履きの生活者であった。だが、あの夜、ハリアーのコックピットから目撃したあの衝撃の光景が私の運命を大きく変えてしまった。……」からはじまり、「ああ、選ばれし者の恍惚と不安、ともに我にあり。人類の未来がひとえに我々の双肩にかかってあることを認識するとき、めまいにも似た感動を禁じ得ない。」とまで続く。あまりに長すぎるため、熱中症で倒れるというオチまでついている。

ここに至って、押井守監督がアニメ界、映画界に刻みつけようとする、野蛮なほどに知的なアプローチや、異端とも感じられる前衛的な試みが明らかになってくる。“子どもも大人も楽しめるアニメ”ではなく、“大人こそ楽しめるアニメ”のジャンルを切り拓いていく押井守監督の作家性が、ここから本格的にスタートしていくのである。

そんな押井監督の『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』は、海外にも多大な影響を与えることとなる。ジェームズ・キャメロン監督や、ウォシャウスキー姉妹監督をはじめ、世界のクリエイターたちにインスピレーションを提供し、映画や映像分野を変革していく、重要な業績も成し遂げているのだ。また、クリストファー・ノーラン監督の『インセプション』(2010年)は、おそらくは偶然ながら、本作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の内容に非常に近く、本作の翻案作品だとしても違和感がないほどである。

ストーリー以外の点でも、本作は見どころが多い。なかでも哲学的なテーマが表れるところでは、例えば、屋外の水道の蛇口から水が流れ、地面に湾曲した真夏の空が映って広がっていく幻想的な場面や、DNAの螺旋構造が動いていくような背景など、まさに“映画”としか言いようがないスペクタクルや、繊細な感覚を味わうことができる。ストーリーの面でも、ヴィジュアルの面でも画期的な本作は、宮﨑駿監督の『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)に並ぶような、まさに「完璧な映画」とでも呼びたくなるような完成度を誇っている。

一方で、この押井監督の持ち味が、あまりにも突出し、原作の設定やテーマを大幅に逸脱した映画について、原作者の高橋留美子は、どう思ったのだろうか。後に本作について高橋が「押井さんの『うる星やつら』」だと述べ、押井監督が「逆鱗に触れた」とまで表現しているように、少なくとも絶賛した前作『うる星やつら オンリー・ユー』に対する好意的な反応に比べると、快いものではなかったようである。

原作と映像化作品との関係については、さまざまな議論がなされているが、少なくとも本作が、高橋留美子の天才性とは異なる才能で価値を生み出した映画であり、原作者の作品に託したテーマや意志と全く別のところで、後世に残り続けるだろう名作に仕上がったことは確かである。これは、よりハードでシリアスなテイストをとり入れた『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』などや、高畑勲監督、宮﨑駿監督などにも言えることだ。このような作品があるからこそ現在のような、“原作に忠実な作品づくり”が徹底されるようになってきている状況が、唯一の正解であるとは思えないのだ。

さて、そんな本作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』は、このような“繰り返しの日常からの脱出”を描くことで、何を表現しているのだろうか。それはまず、原作からの「脱構築」的試みなのだといえよう。もともとドタバタ劇である『うる星やつら』はもともと、基本的に1話完結型で、日常のなかで起こるさまざまな事件や騒動を題材としていくものだ。大きなストーリーがあり明確な目的や結論に向かって進んでいくものではない。つまり登場人物たちは、“繰り返しの日常”を生きているといえる。

本作では、そんな構造のなかで連日バカ騒ぎを続けている登場人物たちが、自分たちの世界が虚構であるということに気づいてしまうという、メタフィジックな仕掛けになっているのである。本作のストーリーでは、その世界を創造した人物が劇中のキャラクターであることが明かされるが、おそらく実際に本作が言いたいのは、全ての中心にいるのは原作者であり、そのなかでいつまでも終わらないエピソードを楽しみ続けたい、われわれ自身ということなのではないのか。

前作『うる星やつら オンリー・ユー』で押井監督は、そういった世界を引き継いで、広げていった。しかし本作は逆に、作品世界に疑問を持ち、そこに風穴を開けることで、“閉じられた気持ちよさ”、“魅力的な束縛”から脱する意志を見せようとするのである。こういった姿勢は、後の『新世紀エヴァンゲリオン』や『少女革命ウテナ』など、後のクリエイターの作品に受け継がれていくことになるのだ。その意味で本作は、アニメーションにおける内部からのカルチャー批判の先駆けになっているところもある。

もう一つ注目したいのは、本作で登場人物たちが「異議ナーシ」といったセリフを何度か発している部分だ。これは、押井監督の子ども時代から青春時代にかけて盛んだった「学生運動」で、よく使われていた言葉だ。全共闘世代が、高倉健の主演する任侠映画において、ヤクザ社会の理不尽と戦う主人公のセリフや行動にシンパシーをおぼえ、スクリーンに向かって「異議ナーシ」と叫んでいた話は有名だ。

後の『機動警察パトレイバー 2 the Movie』(1993年)や『立喰師列伝』(2006年)で、反政府革命や安保闘争などが題材となっていることからも分かるように、押井監督は自分の生きた時代に起こった革命的な動きや思想が、高度経済成長の時代のなかではっきりとした決着もつかずに取り残されてしまった日本社会の現状について、疑問を持っているのだと考えられる。

その方向から見ると、まさに押井監督自身が、時代から切り離されたところでぐるぐると自問している構図が、本作の閉じた世界の描き方にも影響を与えていると感じるのである。メガネや終太郎が荒廃した都市でシリアスな表情を浮かべる風景それ自体が、『機動警察パトレイバー the Movie』(1989年)における、廃墟と高層建築が同居する東京の風景同様に、ある意味での「日本論」として理解することもできるのである。

(文=小野寺系)

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