安定配当の超優良株の転落…ほったらかし投資の“落とし穴”

<前編のあらすじ>

小笠原大地(36歳)は一流大学を出たものの、必ずしも希望する就職先に入れたわけではなかったので、悶々(もんもん)とした日々を送っていた。その中で出会った「ほったらかし投資」が人生を開いてくれるような気持ちにさせてくれたが、その投資の成功体験にも一抹の不安を拭えなかった。その小笠原の様子が気になった宮崎明日香(38歳)は……。

●前編:不労所得で目指せ1億円! 早期リタイアしたい男の“何もしない”投資術とは?

中身が見えないことへのうさん臭さをかぎ取る

明日香は、小笠原の変貌がふに落ちなかった。以前は、自分の仕事だけをこなし、定時で退社することが当たり前だったのが、現在では残業することも厭(いと)わなくなっているようだった。そして、周囲の社員と自分は別種だとでも考えているように、同僚らとは会話することもなかったのが、この頃はあいさつをし、雑談もするようになっていた。そのこと自体は、何も悪いことではなく、むしろ、会社にとっては望ましい変化といえたのだが、その変化が唐突に起こったことに、何だか胸騒ぎがした。

その日、パートタイマーで集まってお茶会を開いた後で、たまたま勤め先のスーパーの前を通りかかった時に、ちょうどスーパーの従業員出入り口の前で小笠原と一緒になった。小笠原の変化が気になっていたこともあり、一緒に夕食を食べないかと誘ったら、案外あっさりと承諾してくれた。

スーパーの目の前にある中華料理店でギョーザをさかなにビールで乾杯した後で、明日香は日頃の疑問を口にした。最近、突然のように仕事に対する態度が変わったこと。周囲と会話するようになってきたことなど、最近の疑問を率直に聞いてみた。そうすると、小笠原も自分の成功体験を誰かに聞いてほしくてたまらなかったらしく、過去1年あまりの「ほったらかし投資」の成果についてとくとくと話し出した。

明日香は、小笠原の話を聞きながら、その運用商品は何で運用しているのか見当がつかなかった。今どき年5%という水準で安定して利払いできる金利商品があるとは思えなかった。しかも、その商品の提供会社の名前は聞いたこともないカタカナ社名だった。アプリを見せてもらうと、運用報告は結果だけで、その運用の中身については詳しい説明がなかった。明日香は、どうもうさんくさいものを感じた。

その日、自宅に帰った明日香は、電話で母の玉枝(73歳)に意見を聞くことにした。玉枝は、若い頃は証券会社に勤め、結婚退社した時がちょうどバブルの最盛期で、持株会で毎月積み立てていた持株を売却したら、何と6000万円になり、その後も、その元手を運用したため、持ち家の取得や子育ての費用等に困ることなく過ごし、今では悠々自適の老後を送っていた。

玉枝に事情を話すと、玉枝は「もし疑わしいところがあるのなら、試しに一度契約を解除してアプリにある通りの残高が戻ってくるのかどうかを確認してみてはどうだろう」ということだった。話を聞く限り、解約に特に制限はないようだし、毎月分配金が出る仕組みであるのなら、一度解約したところで、運用に支障はないだろうという。翌日、さっそく玉枝の提案を小笠原にすると、小笠原は玉枝の提案を実施してみると言った。

そして、小笠原は契約を解除してみたところ、アプリが示していた残高の通りの金額が銀行口座に入金されたことを確認した。ただ、一度解約の手続きをしてみると、あまりにうまく行き過ぎていることが、かえって不安になってきたという。そして、玉枝に今後のことを相談したいと言い出した。

安定配当の超優良株の転落

玉枝は、頼まれると嫌と言えない性格でもあり、運用のことで相談に乗ってほしいといわれて、嫌とはいわなかった。その週末に静かなカフェで玉枝と会った小笠原は、「私も全面的に信用しているわけではないのですが、半年以上にわたって約束通りの成果を出しているのだから、今後も継続的に同じような成績を出していけると感じています。それは、おかしいですか?」と尋ねた。玉枝が答えたのは、「半年や1年で運用商品の良しあしは判断できない。東京電力は40年以上にわたって1株当たり50円の配当を続けていたけど、突然無配になった」と話した。

出所:東京電力のIR資料等に基づき筆者作成

東京電力は、2000年ごろまでは国内上場株式の中で安定配当、安定株価の代表的な存在といえた。実際に、東京電力の配当金は、ずっと1株当たり年間50円だった。オイルショックなどで一時的に減配されることはあったが、1999年に至るまで50円を継続する。40年以上にわたって1株あたり50円の配当を続けていた。そして、2000年以降は1株当たり60円に増配する。その当時、東京電力はトヨタ自動車と並んで個人投資家が投資したい株式のトップに君臨していた。株価の方は、1983年までは1000円前後の株価だったものが、バブル時には9140円(1987年)という高値を記録し、バブル崩壊によって2020円(1999年)まで下落するなど、大きな変動を経験したものの、配当だけは安定していた。40年、50年と続いていた配当が、東日本大震災の折の原発事故で一気に無配(配当ゼロ)に転落し、いまだに復配のめどが立たない状況が続いている。

出所:東京電力のIR資料等に基づき筆者作成

玉枝は言う、「10年単位で物事をみていくと、世の中は何が起こるかわからないということが実感できる」と話し、コーヒーを飲み干した。「『ほったらかし投資』は良くない。世の中に永遠なんていうものはないのだから、必ず運用状況をチェックする必要がある。そのためには自分が実質的に何に投資しているのかを知っていなければならない。運用の中身がわからないものに投資し続けるのは良いことではない」と戒めた。

消えた2000億円

玉枝は、運用の中身がわからないことの恐ろしさについて、2012年に「消失した年金2000億円」として社会問題になった「AIJ投資顧問事件」について話して聞かせた。「年金が消えたなんて、ただ事ではないので、すごく興味を持って報道を追いかけていたのだけど、金融庁に登録して検査も受けている資産運用会社が自らの運用成績をごまかして報告するという前代未聞の詐欺事件だった。AIJの代表らは逮捕されたけれど、同時に批判の対象になったのが、AIJの不正を見抜けなかった年金基金側の担当者だった」と。

裁判などを通じて明らかになったのは、AIJが当時、顧客に提示していたプレゼンテーション資料には、自社ファンドの運用成績が年6%超、月次で0.5%程度の運用利回りでキレイな右肩上がりの成績を示していた。2008年の世界金融危機(リーマン・ショック)を経ているにもかかわらず、2004年の運用開始から10年近くにわたって年間収益がマイナスになったことは一度もないという説明だったという。リーマン・ショックの時には年金基金の運用成績は平均でマイナス19%だったが、AIJのファンドは7.45%のプラスだった。年金基金の運用担当は、わらにもすがる思いでAIJのファンドによる運用の立て直しを図ったのだろう。

「なぜそんな安定して高いリターンなのかと問われると、『独自の指数を使ったオプション取引』というだけで具体的な運用方法を詳しく説明しなかったらしい。後の裁判では、当時のAIJは運用で大きな損失を抱えて解約に応じることもできない状態だったことが明らかにされた。それでも当時、年金基金の運用担当は、AIJからの説明を頼りに、大事な年金資金をどんどんAIJに持ち込んだ。2009年4月から2年間で550億円もの資金をAIJは新たに獲得したそうだ。そのお金のほとんどは戻ってこなかった。ファンドを買うということは、そのファンドの運用者に資金を任せることだけど、信じて任せるだけではダメ。ちゃんと結果を確認することが必要。そして、期待するほどの能力がないと感じたら、ファンドを解約することも大事なことだ」と玉枝は念を押した。最後に玉枝はポツンと「今どき、運用についての重要事項の説明もせず、結果だけを見せて信用してくれなどという業者は珍しいね」とつぶやいた。

小笠原は、結局、田沼の勧めた「ほったらかし投資」には戻らなかった。他の商品などもよくよく調べたら、年5%程度の利回りを1年くらいの期間で続けている商品がいくつかあったという。ただ、それが今後も続くかどうかは判断のしようがない。「中身がわかれば、その価値を判断できる。中身のわからない漠然とした不安を抱え続けるのは良くない」と反省したそうだ。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

風間 浩/ライター/記者

かつて、兜倶楽部等の金融記者クラブに所属し、日本のバブルとバブルの崩壊、銀行窓販の開始(日本版金融ビッグバン)など金融市場と金融機関を取材してきた一介の記者。 1980年代から現在に至るまで約40年にわたって金融市場の変化とともに国内金融機関や金融サービスの変化を取材し続けている。

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