『鎌倉殿の13人』で再注目…鎌倉幕府を実質掌握した「北条家」の闇【教科書に載らない日本史】

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学生時代に習った日本史というと、「暗記ばかりであまり楽しくなかった」という人も多いでしょう。しかし、授業で習った偉人たちに、いまの時代であれば“大炎上もの”の壮絶な裏話やスキャンダルがあったと知ったら、よこしまな好奇心から興味が湧く人もいるのではないでしょうか。『「日本史」の最新裏常識 目からウロコの100』(宝島社)より、教科書に載らない“鎌倉時代の裏話”をみていきます。

怨霊のせいで落馬?糖尿病?歯周病?…「死因不明」の源頼朝

平家を倒し、朝廷から征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉に武家の政権を打ち立てた源頼朝であったが、将軍就任からわずか6年後の建久10年(1199)、働き盛りの53歳でその波乱の人生を閉じている。

これはとてもおかしな話であるが、鎌倉幕府の歴史を綴る『吾妻鏡』では、頼朝の死の前後が欠落しており、頼朝の晩年の活動と死因は不明のままである。

『北条九代記』では、12月27日に相模川の橋供養に参加した帰り道、源義経と源行家の怨霊に会い、さらには安徳天皇の亡霊を海上の波間に見た後、意識を失って落馬したと記されている。そして翌年正月の13日に頼朝は死亡する。

近衛家実の日記『猪隈関白記』には、『前右大将頼朝卿、飲水に依り重病』、『承久記』では「水神に領せられ」とある。これを、水を多飲する病気と考えると、頼朝は糖尿病であった可能性がある。一方、頼朝には心臓発作と思われる症状があったようで、信濃善光寺に病平癒の祈願をしたり、胸の閊えがあったという記録もある。

『吾妻鏡』では、歯の病に苦しんだという記載もあるが、歯周病が悪化し、毒素が体内に影響を及ぼしての心臓発作という可能性も考えられなくもない。

『吾妻鏡』では意図的に削除?…北条時政による「完全犯罪」の可能性

頼朝の落馬から死亡まで17日間あるが、その間に京の名医を呼び寄せたり、寺社に平癒祈願を依頼した痕跡はまったくない。落馬した日に頼朝はすでに死んでおり、政権トップの突然の死を、しばらく秘していた可能性がある。

病死でないケースを考えた場合は、北条時政の刺客による暗殺の可能性がもっとも高いように思われる。『吾妻鏡』の欠落などは、執権の北条時政に都合の悪い内容であったため、後に幕府内部の者が処分したとも考えられるがどうであろうか。

頼朝の死で幕府の実権を握った時政には動機もある。ちなみに、頼朝が火葬されたのか土葬されたのか遺体がどこに葬られたのかすら、実際のところはわかっていないという。

遺体に矢傷や毒の痕跡があったとしても、遺体そのものが素早く処分されてしまえば証拠は消え、完全犯罪になるが、果たして。

北条時政が執権になるまでの「謀略」の数々

初代執権北条時政の人生を狂わせたのは、年の離れた美しい後妻、牧の方である。源頼朝の正室の北条政子が、頼朝の浮気相手であった亀の前が匿われていた屋敷(頼朝の祐筆伏見広綱の屋敷とされる)を打ち壊させたという事件があった。

この時、政子の命で屋敷を破壊したのが、牧の方の父、牧宗親である。この事件では、頼朝は宗親を罰して恥辱を与えているが、時政はこれに抗議し、一族とともに伊豆に引き揚げて頼朝を困惑させている。主家である頼朝と、妻である牧の方を天秤にかけたとき、時政は牧の方を選んだということになる。

幕府ナンバー2の梶原景時失脚は、時政による「密謀」だった!?

頼朝から圧倒的な信頼を得ていた梶原景時は、源頼家からも信頼され、幕府ナンバー2と呼べる扱いを受けていた。

あるとき、下野の御家人結城朝光を景時が成敗するという噂が立ち、恐怖に駆られた朝光は反対に、景時の弾劾状を幕府に提出した。景時は鎌倉を追放され、一族を連れて西国へ落ちる途中、駿河で在地の武士と衝突し、争いとなり討ち取られてしまった。

実は、朝光が成敗されるという噂は、北条時政の娘(政子の妹)が流したもので、景時失脚は時政による密謀だったと噂されている。

さらに時政は、第2代将軍頼家に近い比企能員を謀略で殺害すると、頼家から将軍職を剝奪し修善寺に幽閉。こうして幕府を完全に支配し初代執権に就任する。翌月頼家の弟の実朝を将軍に就任させ傀儡とした。なお、頼家は翌年修善寺で暗殺されている。

謀略の影にあった、“愛する後妻”牧の方

これら時政の謀略の影には、牧の方の影があるとされるが、御家人畠山重忠が謀反を企てたとして討ち取られた件では、牧の方が原因であることを確認することができる。

この事件は、牧の方の娘婿の平賀朝雅と重忠の嫡男畠山重保が酒席で言い争いになったことにはじまる。ある宴席で平賀朝雅と畠山重保とが口論となり、朝雅は悪口を言われたと牧の方に訴え、牧の方は激しく怒り、時政は謀略を駆使して畠山父子を謀反人として討伐する。御家人の鑑と評された畠山重忠謀殺は時政を御家人たちから孤立させ、時政は息子の義時とも対立する。

決定打となったのは、将軍実朝を殺して平賀朝雅を将軍に立てようという暴挙である。時政はこれすら牧の方のいいなりに実行したが、御家人たちの支持を得た北条政子らの反発を受けて計画は失敗。

時政は失脚し、牧の方は娘を頼って京に逃げ、そのまま京で生涯を終えている。鎌倉を追放された時政は出家し、10年ほどののち、隠居地である北条の地で没している。

『鎌倉北条九代記』では、天下の執権を辞して伊豆国北条郡で引き籠っていた時政は、1214年の冬、背中に腫瘍ができ、耐え難い腹痛の中、翌年の正月6日に亡くなったとある。

激しい腹痛と、腫瘍が背中にまで出ていることから、体中にガンが転移した末期ガンと思われる。若き後妻の色香に目が眩まなければ、栄光の中で鎌倉の地で死ねたのだが、初代執権時政の晩年は哀れなものであった。

源実朝暗殺にも関わっていたとされる「北条義時」

北条時政が失脚した後、北条義時は2代執権に就いた。義時は時政同様に謀略で有力御家人を失脚させ、幕府の完全掌握は目前だった。そんな義時の前に立ちはだかったのが、第3代将軍源実朝である。

和歌の名手の実朝は、和歌を通じて後鳥羽上皇とつながりを持ち、次第に両者は信頼を深めることになる。1203年、従五位下・征夷大将軍に任じられた源実朝は翌年に西八条禅尼を正室に迎えているが、彼女は後鳥羽上皇の右腕的存在の内大臣坊門信清(藤原)の娘で、朝廷と実朝とのパイプ役として機能し、実朝を支えることになる。

画期は実朝が1209年に従三位右近衛中将に任ぜられ、政所の開設により独自のブレーンを手にし、実朝自身が直接政治に参加しはじめたことである。

次第に指導力を身に付けた実朝は、目覚ましい昇進で権威も高めていた。1216年には権中納言兼左近衛中将に任ぜられているが、このとき、義時の腹心大江広元は、高すぎる官職は辞して征夷大将軍として政務を執るのが良いと諫めている。しかし、実朝は広元の諫言、つまりは義時の意向を受け入れない姿勢を見せ官職を辞することはなかった。

1218年の実朝の昇進は目覚ましい。権大納言、左近衛大将、右大臣へと駆けあがっているが、父頼朝を越える右大臣への補任は、いよいよ実朝の時代の到来を告げるものであった。

翌1209年、八幡宮拝賀の途中を襲われた実朝は落命。襲ったのは第2代将軍頼家の次男の公暁とその一味であった。公暁は討ち取られ、こうして源氏の嫡流は3代で滅びることになる。

源実朝暗殺は、頼家の第3子公暁+「北条時政」が協力者だった可能性

公暁が厳重な警備の中で襲撃を成功させていることで、協力者があったのではとの説が根強くあり、公暁と近い三浦氏、実朝と対立していた義時、幕府の敵の後鳥羽上皇などがその候補とされる。

暗殺者として特に有力とされるのはその後絶対的な権力を握った義時である。『吾妻鏡』には、義時は八幡宮の楼門あたりで体調不良を訴え、太刀持ちを源仲章に譲ったと記されている。なお、このとき仲章も賊に襲われ命を落としている。わざわざ『吾妻鏡』がこれを記したのは、編纂者が、義時の関与を伝えようとしたためではないだろうか。

この後、義時への権力集中を嫌った後鳥羽上皇は、義時追討の院宣を出して倒幕の戦いを始めるのだが、御家人の支持を得られなかった上皇はあっけなく敗北し、義時は京の六波羅に進駐する。

勝利した義時は後鳥羽上皇を隠岐に、順徳上皇を佐渡に、土御門上皇を土佐へと流している。武士が上皇を流罪に処すというのは前代未聞で、これに皇族や公家は恐怖した。

義時は上皇に味方した者の領地・荘園を奪って地頭を配置し、経済力と軍事動員力を高め、これによりこれまで支配力の弱かった西国にも幕府の支配が及ぶようになった。

さらに、新しい天皇を独断で後堀河天皇と決め、朝廷の無力さと幕府の権威を示し、鎌倉は完全に朝廷に上位する政権となり、本格的な「武家の世」が到来する。『吾妻鏡』はこれを称え、北条氏の歴史は義時から始まったと記している。

日本史研究会

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