「このままやったらあかんなと」本能のままにプレーしていた中学時代から一変。サッカー人生で味わった初めて挫折【パリの灯は見えたか|vol.6 藤尾翔太】

パリ五輪のアジア最終予選を兼ねたU-23アジアカップまで残り2か月を切った。与えられた出場国は3.5枠(4位の場合はアフリカ大陸・4位のギニアとのプレーオフ次第)で、その争いは熾烈を極める。

中国、UAE、韓国と同居するグループステージを2位以内で潜り抜け、ノックアウトステージを勝ち抜けるか。メンバー争いも最終局面を迎えており、3月22日(U-23マリ代表/京都サンガスタジアムby KYOCERA)と25日(U-23ウクライナ代表/北九州スタジアム)に行なわれる親善試合を経て、大会に臨む23人が確定する。

そのメンバーの枠を狙うのが、A代表に招集されているFW細谷真大(柏)とともにパリ五輪世代を牽引してきたストライカー・藤尾翔太だ。

C大阪の育成組織で育ち、プロ入り後は徳島や水戸などで武者修行。昨季は町田で大きな飛躍を遂げ、体躯の強さを生かしたボールキープとゴール前に入っていく迫力を武器に8ゴールを重ねた。

Jリーグの舞台で立ち位置を確立しつつあるが、その一方で代表では国際舞台を経験していない。2021年のU-20ワールドカップはコロナ禍の影響で中止となっており、世界の強豪国に真剣勝負を挑める舞台は未知の世界。新たな扉を開くべく、研鑽を積むストライカーにルーツを振り返ってもらいつつ、パリ五輪への想いを聞いた。

――◆――◆――

2001年5月2日に生を授かった藤尾は生粋の大阪人。当時、C大阪がホームスタジアムとしていた長居陸上競技場の近くで生まれ育った。

阪南大高でキャプテンを務めた父親や、立正大淞南で高校サッカー選手権に出場した経験を持つ4歳上の兄の影響で幼少期からボールを蹴っていたなかで、本格的にサッカーを始めたのは小学校3年生の時。兄の後を追うように育成に定評があるリップエースSCジュニアに加わると、早い段階からストライカーのポジションでプレーしていたという。

本人は「フォワードを任された経緯はあんまり記憶がないけど」と苦笑いを浮かべながら当時を振り返ったが、「ゴールを決めるのが好きだった」という記憶は脳裏に焼き付いている。

ゴールを決める楽しさを知り、最前線で誰よりもネットを揺らして瞬く間に頭角を表した一方で、当時のプレースタイルは現在のような身体の強さを生かしたモノではない。今以上にゴールを奪うプレーに特化していたという。

「小学校の時は案外ひとりでいけてしまうので、個で打開するゴールが多かった」

リップエースSCのジュニアユースに昇格した藤尾は、FWとして順調に成長を遂げていく。

「中学生に入ってから背後に抜ける動きを学んだ。センターバックやボランチが出てくるときにどう動き出すか。そんなに足が速いわけではなかったので、そこはかなり鍛えられた」

中学3年間を通じて、ゴールから見放された時期はあまりなかったという。

「本能のままに動く。みんながボールを僕に集めてくれたし、実際に自分が一番ゴールを奪っていた。周りが僕の特徴を理解してくれていた環境だったので」

【PHOTO】華やかなダンスパフォ! Jクラブチアが国立に大集合!(Part1)

生粋のゴールゲッターは評価を右肩上がりで高め、中学卒業後の進路を決める頃には多くのチームから注目を集めた。Jクラブの育成組織や高体連の強豪校などからのオファーはひとつやふたつではない。そのなかで藤尾にはひとつの想いがあった。「プロサッカー選手になるために最短距離を走りたい」という気持ちである。

「選択肢はJリーグの育成組織を中心に考えていました。数クラブ行きましたけど、練習の環境や一番楽しかったのがセレッソだったんです」

並々ならぬ想いを持って、桜色のユニホームに袖を通した藤尾。出場機会は3年間を通じてコンスタントに得ていたが、ユースで過ごした3年間は悩みを抱えながらのプレーが続いた。

「中学3年生の頃はそんなに考えなくてもゴールが取れていた。でも、セレッソのU-18チームに入ってからはあんまり得点を奪えなくなったんです。そこで初めて色々考え始めるようになった。でも、これは高校1年生の頃だけの話じゃない。高1から高3。ずっとそうでしたね」

周りのレベルは一気に上がる。トップチームの練習や試合に出場する者も多く、今まで置かれた環境とはまるで違う。黙っていてもボールが来るわけもなく、一から自分と向き合う取り組みが必要になった。

「1年生の頃から3年生の試合に出場する機会を得たんですが、自分は一番下の学年でなんの実績もない。信頼もないですし、ボールもたくさん集まらない環境。そこで初めて自分なりに色々考えたんです」

中学時代までは本能のままにプレーしていた。仲間からの信頼も厚く、何もせずともボールが集まってくる。そんな状況から一変し、サッカー人生で初めて挫折を味わった。

「正直、入学した頃ぐらいまでは焦りとかもなかった。うまいこと、ここで活躍できれば、プロになれるだろうなって思っていたぐらい。でも、徐々にこのままやったらあかんなという焦りが出てきた。高校1年が終わる頃に自分なりにどうすればいいかを考えるようになったんです」

そこから、私生活も含めて24時間サッカーと向き合う生活をスタートさせた。本当の意味でプロになるために必要なことは何か――。身体作りも一から見直したのもそのためだ。

「ほかの人がどんな食事を摂っているかは分からないけど、筋肉がたくさんつくようにタンパク質を多めに摂ったり、糖質をどう摂取するかを考えていた。ある程度の知識はあったので、そこは意識しましたね」

昔からお菓子やカップ麺、ファーストフードは一切摂っていない。だが、そうしたストイックな取り組みをさらに取り入れ、プロになるための身体作りをスタートさせた。

「今は添加物をとることにめちゃくちゃ抵抗があるし、コンビニのお弁当やおにぎりも食べたくない」

こう言い切れるほどに徹底した食生活を送り、海外勢にも当たり負けしない強靭な肉体を作り上げた。

また、高校時代にJの舞台を経験した点も藤尾にとっては分岐点になったという。

「高校2年生の時に(当時U-23チームを有していた関係で)J3の試合に出場させてもらえたのは大きかった。フィジカルの違いやプロのスピード感をいち早く味わえたのは良かった」

そうした積み重ねを経て、高校を卒業した2020年にC大阪とプロ契約を締結。同年はJ1で4試合1ゴールにとどまったものの、U-23チームで研鑽を積んだ。その前年はJ3の舞台で11試合・2ゴールに終わっていたが、プロ1年目のシーズンは26試合で8ゴール。着実にステップアップを果たし、翌シーズンの飛躍を予感させるパフォーマンスだった。

そして、迎えたプロ2年目の2021年シーズン。ここから藤尾は毎年のようにクラブを渡り歩く。

「1年目は絶対に結果を出さなあかんと思っていた。なので、ルーキーイヤーに考えていたのは、正直に言うと、チームのことよりも個人でどれだけ成長できるかどうか。

正直、J3で全然勝てていなかったのもあるし、U-23チームは高校生主体。その中で2、3歳上の先輩たちが違う場所でチャレンジをする姿を見ていたし、僕もプロの世界で絶対に生き残りたかった。なので、2年目はとにかく結果を残さないといけないと感じていたんです」
プロ2年目のシーズンはC大阪のU-23チームが活動を休止。トップチームで勝負するしかなく、アダム・タガートといった助っ人FWや実績十分の大久保嘉人らとポジション争う必要があった。

開幕すると、大ベテランの域に差し掛かっていた大久保が好調を維持。開幕5戦で5ゴールを挙げるハイパフォーマンスで、自身に出場機会が巡ってこなかった。6月上旬までに得られた出番はJ1・14節の神戸戦のみ。わずか3分の出場時間しかなく、ベンチに入ることすらままならなかった。

そこで、藤尾は大きな決断を下す。同年6月12日に水戸への育成型期限付き移籍を決めたのだ。自身初となるほかクラブでのプレー。この挑戦が藤尾にとって、大きな転機となる。

※本稿は前編。後編は2月22日に公開予定です。

取材・文●松尾祐希(サッカーライター)

© 日本スポーツ企画出版社