穏健イメージの篤姫 心情訴えしたたかに…黎明館(鹿児島市)で初公開、嘆願書状から浮かび上がる一面とは

篤姫の書状。中央付近に「一命にかけ」「御父上(島津斉彬)」といった文字が書かれている=鹿児島市の黎明館

 「一命にかけ、ぜひぜひお頼みする」。黎明館(鹿児島市)で、天璋院篤姫の書状が展示中だ。江戸城総攻撃直前に西郷隆盛に宛てたとされ、心情に訴えながらしたたかに、徳川家存続を嘆願している。平和的解決に奔走する穏健なイメージも抱くが、その後の書状では薩摩を「悪逆」と見なし、東北諸藩に討伐を呼び掛ける過激な一面も。幕府崩壊から新時代へと向かう激動のさなか、篤姫はどのように立ち回ったのか。

 嘆願の書状は1868(慶応4)年3月11日、新政府軍の隊長(西郷)に向けて出された。総攻撃は同15日の予定だった。

 徳川家存続は薩摩藩でなければ実現できないとする一方、一橋家出身の将軍徳川慶喜を「当人の様子はかねがね私の気持ちに合わず」などと非難し、朝敵となった責任を押し付けている。さらに西郷が敬愛する島津斉彬の名を“殺し文句”にしつつ、自身も「寝食も満足にできず」と明かして、たたみかけている。

 志學館大学の原口泉教授は「斉彬の名で揺さぶりつつ徳川の安泰を願っている。自分を救いたいという薩摩の思惑も踏まえたしたたかさもある」と評する。ちなみに「天璋院」と署名した唯一の書状だという。

■幾島、命がけ任務

 「西郷に書状を届けた状況もドラマチックだった」と話すのは、同館の崎山健文学芸専門員。使者となったのは、篤姫付の老女・幾島だった。

 幾島は当時、病を患い医師からは余命1年とされていた。歩行も難しく、女中や役人が付き添い出発した。しかも道中には、新政府と幕府の軍勢がひしめいていた。崎山さんは「まさに命がけ。ただ、斉彬の命で篤姫に付けた幾島に西郷が会わないはずがないという計算もあったかも」と解説する。

 一次資料ではないが、肥後藩(熊本県)の風聞探索書には、西郷は書状を手に涙したとある。ただ、西郷が篤姫の願いである徳川存続より、慶喜の排除に言及したため幾島が立腹。西郷を刺そうとしたとも書かれている。興味深い内容だ。

 結局、慶喜は水戸に謹慎、将軍家一門・田安家の亀之助(後の家達)が跡を継ぐ形で、徳川家は存続した。ところが、その後の篤姫は薩摩に敵意を示し始めた。崎山さんは「旧幕臣がひやひやするほど過激な面があった」とみる。実際に皇女・和宮は「天璋院は気性の人」とも評している。

■「神敵仏敵盗賊」

 嘆願の書状から4カ月後、仙台藩の伊達家への書状では、薩長は上野戦争で徳川家の墓所がある寛永寺を理不尽に砲撃し、宝物を奪った「神敵仏敵盗賊」と非難。また、徳川が江戸から領地を大幅に減らされた上で駿府(静岡)70万石に移されたことに不満を述べ、会津と力を合わせ薩長を「退治」するよう求めた。

 怒りの矛先は西郷にも。徳川家への一連の処置を「残酷」と訴え、西郷に相談したところ、最初は応じたが、その後は面会せず逃げたと非難したという。

 原口教授は「徳川家に骨を埋めるつもりの篤姫にとって、寛永寺を燃やしたことが許せなかったのだろう」。崎山さんは「人一倍徳川の人間になろうと純粋な思いが強すぎ、過激な方に針が振れた」と語る。

 篤姫は将軍家に入った後は生涯、故郷の地を踏むことはなかった。だが、薩摩ゆかりの絵や道具などを持っていた。原口教授は「実家と嫁ぎ先が衝突する中、究極の選択が続いた。故郷への愛着を内に秘めた心境はどのようなものだっただろう」とおもんぱかった。

 嘆願書状の展示は、黎明館開館40周年記念展「黎明館の至宝」で25日まで。

天璋院篤姫(尚古集成館所蔵)
天璋院篤姫(尚古集成館所蔵)

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