「宝ものだった息子」小2の男子児童(当時8)がインフルエンザの合併症で死亡 涙を浮かべ法廷で語った母親の思いと願い

5年前、広島県内の小学校に通っていた当時8歳の児童が亡くなったのは、校内でのインフルエンザ感染が原因だとして、両親が独立行政法人に死亡見舞金を求めている裁判が始まりました。児童の両親は教育現場の感染症対策の改善を訴えました。

訴えによりますと、2019年、県内の小学校2年生で、特別支援学級に通っていた男子児童はインフルエンザのクラスターが発生していた校内でインフルエンザに感染。これに伴い発症した全身性炎症反応症候群や脳ヘルニアにより亡くなりました。

児童の両親は、亡くなった児童の行動歴や感染病に注意が必要な身体状況であったこと、別の児童の感染状況などからインフルエンザに校内で感染したことは明らかとしています。そのうえで、学校で起きた事故などに災害共済金を給付する独立行政法人日本スポーツ振興センターに対し3000万円の死亡見舞金の支払いを求めています。

これに対し、法人側は支払いの対象となる疾病とはいえないとして、訴えの棄却を求める答弁書を提出しました。

裁判後の記者会見で両親は、児童が校内で感染した事実を認めてほしいとしたうえで、教育現場で感染症に弱い子どもに対する配慮など感染症対策の改善を訴えました。

児童の両親
「(コロナ禍のような)マスク、手洗い、うがい、喚起、アクリル板などそういうことができたら配慮ができたらと、今後私たちのような子どもが入学するとき、もう少しうまく就学や学校生活が送れないか考えたい」

弁護側は今後、法人側に死亡見舞金の不支給の明確な理由などを求める方針です。

「宝ものだった息子」病気が発症しても必死に病と闘い続け【意見陳述全文】

21日に開かれた第1回口頭弁論の中で、児童の母親はハンカチで涙をぬぐいながら息子の闘病生活や裁判の思いなどについて意見陳述しました。

児童の母親 ※全文・一部修正
宝物だった息子が亡くなってから、4年が過ぎました。 息子がいないという現実は、いまだ受け入れることができません。 息子に会いたい。この想いは、日に日に強くなるばかりです。

生まれてすぐ、白血球の数値が高いことが分かり、大学病院に搬送されました。2か月後、ようやく家族で暮らしを始めた時は、本当にうれしかったです。
ですが、退院したのも束の間、心臓の病気も見つかり、手術を受けました。
6キロくらいしかない小さな身体で、頑張って手術に耐えてくれました。この時、医師から、『ウイルス感染などは重症化する可能性がある』と言われました。
だから、その後は、感染症には特に注意をして生活するようになりました。
ダウン症であることも分かりました。初めは不安もありましたが、息子は、のびのびと育ってくれました。

滑り台が大好きで、公園に行けば、何度も何度も滑っていました。滑り台の終わりは、ジャンプして立ち上がるのがお決まりでした。 花火も大好きでした。初めて花火をした時、最初は驚いていましたが、綺麗な光でパッと周囲が明るくなるのが嬉しかったのか、花火が無くなるまで何本も欲しがりました。

アイスクリームが大好物でした。特に好きだったのは、バニラのソフトクリーム。カップではなく、手に持って食べるコーンのタイプがお気に入りでした。 アイスが溶けて落ちると心配しましたが、落ちそうになるとコーンの横から上手にペロっと食べていました。1日に1個という約束をさせていましたが、足りないときは、家族の誰かと一緒に食べれば許されると思っていたようです。冷凍庫から2個のアイスを取り出して、一緒に食べようと誘ってくる仕草は、可愛くてたまりませんでした。

5歳になる直前でした。白血病を発症し、入院して抗がん剤の治療を受けることになりました。その直後、脳梗塞も発症して、右半身に麻痺が残りました。 あれほど元気に走り回っていた息子が、自分で歩くことも出来なくなりました。
なぜ息子ばかりこのような目に遭わなければならないのでしょう。
それでも、息子は、大人でも逃げ出したくなるような厳しく辛い入院治療を頑張ってくれました。

抗がん剤治療の副作用や、骨髄に直接注射をする激しい痛みを伴う治療。親が子の治療の場面を見るのは辛すぎるので、外に居てくださいと言われました。
処置室の外にまで響き渡ってくる息子の泣き叫ぶ声に、耳をふさぎたくなりました。食事や飲み物にも制限があり、大好きなアイスも食べられませんでした。 何かを食べてもすぐに吐いたり下痢をしたりしました。点滴に繋がれ、行動を制限されました。それでも、私が『頑張ろうね』と声をかけると、『ハイ』と返事をしてくれたり、手のひらでタッチをしてくれたりしました。

治療の甲斐あって寛解となり、9か月後に退院することが出来ました。息子は本当によく頑張ってくれたと思います。

退院後も保育園に通うことはできませんでしたが、卒園式だけは出席させてもらいました。園長先生から卒園証書を受け取った息子は、目を輝かせて喜んでいました。

小学校入学にあたり、息子は感染症に注意が必要と医師から言われていましたので、特別支援学校への進学を希望していました。ですが、特別支援学校でも感染症対策を丁寧に行うことは出来ないと言われ、最終的には、地元の小学校へ入学しました。

小学校生活の始まりとインフルエンザ感染・・「代われるものなら代わってあげたい」【意見陳述全文】

2年生に進学した2019年。9月の4週目は、水曜日まで学校を休んだ後、木曜日と金曜日は、3時間目以降の時間を小学校で過ごしました。

土曜日は、学校はお休み。1日中自宅で過ごしました。29日の日曜日の朝、高熱が出たため、病院に行ったところ、インフルエンザとの診断でした。その後は、あっという間に重症化しました。

息子は、数えきれないほどの点滴や注射に耐え、必死にウイルスと闘ってくれていました。それにもかかわらず、次第に笑顔は消え、目を開けることもなくなりました。内蔵の機能が低下していき、顔がむくみ、手足も腫れていきました。顔の色も今まで見たことのない鉛のような色になっていきました。

医師からは「会わせたい人がいれば、早いうちに」と言われました。祖父母が駆けつけ、「代われるものなら代わってあげたい」と涙ながらに声をかけていたことが忘れられません。

最期は、家族が見守る中、息を引き取りました。
わずか8歳でした。

息子は、右半身麻痺のために一人で移動することが出来ず、行動範囲がとても限られていました。

担任の先生に続いて、小学校内でクラスターが発生していました。息子が小学校の他に唯一立ち寄ったデイサービスの施設ではインフルエンザ感染者は全くいませんでした。ですから、息子のインフルエンザ感染は小学校内で起きたことに間違いありません。

ところが、小学校は、自分たちに責任はないということを強調し、息子が亡くなったことは『知らない、分からない』と言うばかりでした。

私たちは、小学校や先生を責めるつもりは全くありません。ただ、小学校内の感染で息子の尊い命が失われたことを認めていただきたいのです。そして、息子のようなハンディのある子どもたちが、より安全に小学校生活を送るためにはどうすべきかを考えて欲しい。息子のような子が二度と出ないように、改善すべきことがあるならば工夫して頂きたいのです。

小学校内での感染であることを一向に認めない小学校の対応を目の当たりにする中で、息子が蔑ろにされているような気持ちになっていきました。息子という子どもがいたことに向き合ってもらえていない。過去のこととして忘れられようとしているように感じました。

そのことがどうしても辛く、同じように学校事故で子どもを失った遺族の会に参加するようになりました。その中で、『息子が生きた証として、スポーツ振興センターへ災害共済給付金の請求をしてはどうか』とアドバイスを受けました。『小学校での感染であることがきちんと認められれば、今後、息子のように感染症に弱い子どもに対する対策も、進歩するかもしれない』とも言ってもらいました」

息子はたくさんの大病をしましたが、これを乗り越え、精いっぱい生きていました。精いっぱい生きようとしていたことを認めてもらいたい。息子が生きた証を残したいという気持ちで、共済金の手続きを始めました。

「息子のような子どもたちが安心して小学校に通うことができるように」裁判にのぞむ両親の思い【意見陳述全文】

小学校は、息子が小学校内で感染したことは分かっていたはずです。ところが、災害共済給付金請求の書類に『両親が申請するよう強く要請したため』と記載しました。息子の身体状況や生活状況、接触のあった他の児童の感染状況などを正確に報告してくれることもなく、他人事のような対応でした。
スポーツ振興センターの審査においても、息子の行動範囲がごく限られていたことや、小学校でのクラスターの状況等に正しく目を向けてもらえず、不支給決定とされてしまいました。

息子という1人の人間が存在したこと。息子が精いっぱい生きていた様子を、しっかりと見つめてもらうことは出来ませんでした。

息子は、たくさんのハンディを負っていましたが、大病を乗り越え、一生懸命に生きました。私たちのかけがえのない宝物でした。 この裁判では、息子という1人の子どもが精一杯生き抜いたことを、正面から認めて頂きたいです。そして、息子のような子どもたちが、他の子どもたちと同じように安心して小学校に通うことが出来るよう、改善がなされていくことを、心から願っています。

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